「習熟度別」を巡って少し

最近のエントリーでいえば、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080210/1202620991に関わるのかも知れない。また、一部http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-571.htmlへのカウンターステイトメントを含む。
Arisan曰く、


いわゆる「ゆとり教育」とか「平等主義」に対する反動のようなものもあり、たとえ学力の格差のようなものが広がる結果になっても、とくに学力の高い子どもの能力をさらに生かしていくような教育システムに変えていくべきだ、という主張がされることが多い。



こうした主張のなかで、いつも聞かれるのは、「今の悪平等の教育システムでは、勉強のできる子、もっと学力を伸ばしたいと思ってる子たちが可哀相だ」といった言い分である。

しかし、これはまったくおかしな言い草だと思う。

自分の好きなことを学びたいという意欲は、「学力のアップ」ということに重なるとは限らない。入試やテストの成績の向上という目的にだけかなうように、子どもたちの学習への意欲を枠の中に押し込めようとしているのは、大人たちではないか。

要するに、成績のいい子ども、学力の高い子どもを作りたい(育てたい)と思っているのは、あくまで大人たちであって、その自分たちの願望のために大人はさまざまな「教育改革」をやろうとしてるのである。それを「子どもたちの願い」の実現(救済)のためのように言うことは、欺瞞だというのだ。


また、子どもがテスト(の点数)や授業で他の子どもとの競争に勝つこと、入試で他人に勝利することに、やりがいや意欲を示したとしても、それは競争ということのなかでしか自己を確認できない、承認されている感覚が得られないような仕組みを作り上げている、大人たちの側に原因があるのである。

自分たちで原因を作っておいて、その狭い場所のなかに子どもたちを追い込んでおいて、そこで「生きがい」を得ようともがいている姿を指差して、「この子どもたちの意欲を満たすために、もっと勉学の場を」、という風にいうわけである。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20080210/p1

ご本人も追記しているように、実は「学力」とは何かということが大問題なのだろうけど、このことは今問わない。それに対して、

 その科目について習熟度?が少し遅れている子にあわせて説明しているときは、成績上位の子が死んだ目になっています。ちょっと突っ込んだ説明をしているときは、下位の子は私には関係ない世界の話だという表情をします。

 勉強が進んでいる子は基礎ばかりやられても身にならないのでもう少し応用的な問題をやらせてほしいと思うし、前段階でつまずいている子はわからないものがあるのにさらにその上に進まれてももう手も足も出ません。

 で、授業の効率が悪いから成績にかかわらず塾にいって自分の学力にあった授業を受けなくてはいけない羽目になる。そこで時間を取られて自分の本当にやりたいことが出来ない。これが私が子供だったら一番いやな状況です。
http://d.hatena.ne.jp/law/20080211

という反論があり。
今手許に佐藤学氏の『「学び」から逃走する子どもたち』と『学力を問い直す』というブックレットがあるが、それらを参照すれば、後者のような意見というのは「「学力」は基礎から上に積み上げて形成されるのではなく、逆に上から引き上げられて形成されていく」(『学力を問い直す』、p.45)ということとは矛盾している。佐藤氏曰く、「「学力」を形成するためには、自分のわかる(できる)レベルにもどって積み上げてゆくのではなく、自分のわからない(できない)レベルの事柄を教師や仲間とのコミュニケーションをとおして模倣し、それを自分の中に「内化」することが必要です」(ibid.)。具体的には、

たとえば、小学生の算数で一番つまずきが多いのは分数の計算ですが、分数の計算の方法を習得したとき、多くの子どもが分数の意味や計算方法の意味を理解していません。分数の意味が納得でき、その計算の意味がわかるのは、通常、比例を習ってからです。(pp.45-46)
また、「多くの子どもは、台形の面積を学んで初めて、三角形の面積の求め方を納得してい」る(p.46)。
「習熟度別指導」それ自体については、それが「学力」の底上げをしたという調査報告はないことが指摘されている――「学力の格差を拡大する以上の成果をあげてこなかった」(『「学び」から逃走する子どもたち』、p.51)。また、「習熟度別指導」には以下のような有効性の限界がある;

教育目標を到達目標で明示し、学習の過程を小さな段階で組織し、学習結果を到達度で評価するという様式において、「習熟度別指導」は効果を発揮します。端的に言えば、自動車学校のように技能を段階的に修得する学習において習熟度別指導は有効な方法です。しかし、このような学習の考え方は、産業主義の時代の効率性を原理とする学習の考え方であり、一九七〇年代までは影響力の大きかった行動主義の心理学による学習の考え方であって、世界の学校ではすでに二〇年前に克服されています。(『学力を問い直す』、p.51)
「学び」から逃走する子どもたち (岩波ブックレット)

「学び」から逃走する子どもたち (岩波ブックレット)

学力を問い直す―学びのカリキュラムへ (岩波ブックレット)

学力を問い直す―学びのカリキュラムへ (岩波ブックレット)

実は、「習熟度別指導」というのは「学力の高い子どもの能力をさらに生かしていく」ということでなく、寧ろ成績が下位の子どもを〈低学力〉に釘付けにすることの方が主要な効果ではないかと思う。たしか、『習熟度別指導の何が問題か』という別のブックレットの中で、佐藤氏は、「習熟度別指導」でレヴェルを落とした場合、生徒にとっても教師にとっても主観的な満足度は上昇するが、その満足こそが〈罠〉なのだと述べていたと思う。それがマクロな社会的(或いは経済的な)コンテクストで何を意味するのかについては、http://d.hatena.ne.jp/FUKAMACHI/20080221とかをお読みいただければいいのではないかと思う。
習熟度別指導の何が問題か (岩波ブックレット)

習熟度別指導の何が問題か (岩波ブックレット)

さて、「ゆとり教育」が新自由主義と親和性がないとはいえないだろう*1。しかし、それのみに還元できることではないだろう。そもそも、http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070922/1190391320で指摘されているように、「明確な理念があって統一されたものではない」、全体を見通すことができない(そういうことがされてこなかった)ものとした方が実態に近いのではないか。通常は単純に「ゆとり教育」=「授業時数の減少」+「学習する内容の削減」であると割り切って理解されているようだが*2、その場合、問題は教えるレヴェルを落とせば落とすほど、デフレ・スパイラルみたいに理解度も落ちていったということにある。それに対して、「ゆとり教育」以前に戻るのがいいということもいえないだろう*3。まるで、新自由主義に反対して、以前の田中角栄的な自民党とかベタな社会主義に戻れといっているようなものだ。

*1:佐藤学氏は、新自由主義よりも寧ろ新保守主義に結び付けている。

*2:Cf. http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20080118/1200585580

*3:但し、以前の「系統的学習」の方が優れているというところはある。Cf. http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070328/1175084468