「「自然」な役割」としてのジェンダー(田崎英明)

ジェンダーで学ぶ社会学

ジェンダーで学ぶ社会学

田崎英明「行為する――行為とジェンダー*1(in 伊藤公雄、牟田和恵編『ジェンダーで学ぶ社会学*2、pp.60-73)から;


(前略)男であるとか女であるとかということは、ある行為の理由ないし根拠を説明するときに、それ以上問い返せない最終的な答え、つまり、「自然」として人びとからとらえられてしまうことが多い。その人がそのようにふるまうのは男だから、女だから、当たり前である、というふうに。男は外で働くのが当たり前であり、女は家を守り、子どもを産み、育てるのが当たり前である、と考えている人は、いまでも、けっして少なくはない。「その人は、このような仕事にむいているから、この職場に就職したのだ」とか、「あの人は家事が得意だから家庭に入っているのだ」とかいうのではなくて、「男」や「女」ということが、その人の行為の理由=根拠として受けとられてしまうのである。(pp.65-66)

私たちは、通常、「男」であるとか「女」であるということを、「自然」なこと、まさに、自然科学である生物学や医学において定義されるような何ごとかとしてとらえている。身体の外面的、内的な特徴――生殖器の形態の違い――や、あるいは、遺伝子的レベルでは、性染色体の違いとして、性差を考えることに慣れてしまっている。そのような科学的定義にとっては、ある人が男であるか御案であるかは、その人が何の行為をしなくても、極端な場合、死んでいたり、反対に、まだ生まれていなくても(胎児の状態で)、その性別を決定できる。つまり、このような自然科学的な性差の定義おいては、問題なのは「存在」――何であるか――であって、「行為」――何を為すか――ではないのである。
私たちが、このような自然科学的な定義を最も適切なものとして受け入れているとしたら、それは、私たちの感覚のなかでは、性差というものは、「自然」な、「存在」の秩序に属するものであって、「行為」の領域に属するものではないととらえられているからに違いない。(後略)(pp.66-67)