大石俊一『「英語」イデオロギーを問う』

「英語」イデオロギーを問う―西欧精神との格闘

「英語」イデオロギーを問う―西欧精神との格闘

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071012/1192195684で「英語帝国主義」論について云々した後で、「英語帝国主義」についてよく発言していた方で、大石俊一という人の本を以前古本屋で買って、さらに中国にまで持ってきたことに気付き、『「英語」イデオロギーを問う――西欧精神との格闘――』(開文社出版、1990)を読んでみた。


I 「英語」をめぐる心理的葛藤
II 日本における「英語」「英会話」素描
III 「英語」帝国主義に抗して
IV 「英語」抑圧装置に抗して
V 「東」と「西」の真の平等性にむけて――西欧普遍主義の克服のために――


参考資料
あとがき

著者は英文学の専攻で、特にジェイムズ・ジョイスの研究家。「英語帝国主義」を云々する人(例えば津田幸男)が反動的なナショナリズムに傾くことがままあるのに対して、大石氏はジョイスに見られる「革命的な言語ユートピアニズム」、「英語に無数の言語を混合してつくりあげた「夢言語、酔いどれ言語」による、「歴史」という「悪夢」のユートピアニズムへの超越」(p.143)を目指す*1。また、その思考の根柢には、

ところで、真に普遍的な言語とは、一切の言語が互いにとって〈外部〉であるような言語、それはまた、一切の言語の間に「真の交換、真の外部」が成立しえているような言語であるといえよう。むろん、逆にいうと、それぞれの民族言語は、その中の人間をその〈内部〉に封じ込める自閉的、自足的な言語にほかならないということだが。(p.25)

そして、「真の交換、真の外部」は、いわば極端な〈疎外〉の中――根無し草、無国籍性、亡命性の中――にしか存在しえないといえよう。そして、それを具現している人々といえば、周知のように、自分にとって自分の身体がすべて〈外部〉となっているような――明日、変な法律ができて、全員虐殺となってしまうような――また、生存のためにつねに外国語へと心を開いていなければならないような、あのユダヤ人たちであるのかもしれない。(pp.26-27)
という認識がある。さらに、有名なサン・ヴィクトールのフーゴーの

故郷を甘美に思う者はまだ嘴の黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられる者は、すでにかなりの力をたくわえた者である。だが、全世界を異郷と思う者こそ、完璧な人間である。
という言葉を引用し(pp.74-75)、

「みんな人間だよ」といえる「あらゆる場所を故郷と感じられる者」以上の存在は、「みんな外国人だよ」といえる「全世界を異郷と思う者」なのである。この後者の一見、根無し草のように見える精神のあり方こそが、「真のヴィジョンに必要な精神的超然性と寛容性とを同時に得、その故郷と、そして全世界とを」*2、ともにまっとうに受けいれられるのだ。(p.75)
と述べている。
ところで、大石氏はサイードに影響を受け、イングランドにとって地理的に最も身近な他者、「イングランドの最初の植民地であり、かつ、今日のイギリスの恥部として、その最後の植民地である」(p.138)アイルランドに注目している。これは単純な〈東‐西〉という二項対立からの訣別に繋がる筈である。しかしながら、特に 「「東」と「西」の真の平等性にむけて」という章においては、それ自体〈オリエンタリズム〉によって構成された〈東‐西〉の対立がベタなレヴェルで回帰してしまっているとも感じられる。殖民地主義(帝国主義)は非‐西洋を西洋化するとともに、西洋を非‐西洋化するともいえる。この本が刊行されたのは、カズオ・イシグロの成功の後である。カズオ・イシグロの成功が意味するもの、それは正統な英語が1人の日本人によって丸ごと横領されてしまったということを意味するだろう。大石氏はイシグロをどう評価するのか。

*1:それに関して、大石氏が援用している(pp.143-146)フィリップ・ソレルスジョイス論「ジョイス商会」(『ユリイカ』9-11)は必読だな。

*2:イードの『オリエンタリズム』からの引用。

Orientalism

Orientalism