「怒ったような顔つき」(メモ)

砂のように眠る―むかし「戦後」という時代があった (新潮文庫)

砂のように眠る―むかし「戦後」という時代があった (新潮文庫)

関川夏央「一九六九年に二十歳であること――『二十歳の原点』の疼痛」(in 『砂のように眠る むかし「戦後」という時代があった』、pp.217-241)*1からメモ。


わたしは一九六八年に大学の一年生だった。高野悦子とは同年、昭和二十四年の生まれである。が、彼女は一月生まれ、いわゆる早生まれだから学年はひとつ上になる。その頃のわたしはやはり彼女のように、自分が自分であること、自分が自分でしかあり得ないことに心からうんざりしていた。
〈感情をすぐに顔に出すことは前々から知っていたが、このごろの私はふくれっ面ばかりしている。電車の窓にうつる自分の表情をみても、口をとんがらかし、目をいぶかしげにしている〉(六八年十月二十八日)
わたしもそうだった。いつも怒ったような顔をしている、といわれた。
わたしは青年はそういう顔をしているべきだと信じていたのである。すなわち、「ハードボイルド」の天知茂のようなしかめっ面を、義によってしていたのである。
わたしだけではない。怒ったような顔つきを無理につくろうとしていた学生たちが、まわりには少なくなかった。彼らは一日中工場の煙突のように煙草の煙を吹きつづけ、夜は夜で二日酔い必至の安酒をつまみなしで飲んだ。胃が病み顔色は悪くなって痩せた。それがなんになるとも思わなかったけれども、そうしないとおとなになれない気がした。しかしわたしの場合、ひとたび笑うとしかめっ面が溶けたようになくなる、ともいわれた。そんなとき対した相手がはじめてくつろぐのが明らかにわかった。わたしも楽になった。ならばそうすればいいものを。
そうできなかったのは、広大な世間と、いや世界そのものと向き合うには、そんな身構えで武装しなくては(武装したつもりにならなくては)不安だったからである。都会でひとりで暮らしていくということ、故郷や親から離れるということ、すなわちおとなになる準備をするということは、なかなか気骨の折れることであった。(pp.228-229)