「アデューのコギト」、「世界の終わりのあとの世界」

承前*1

雄羊 (ちくま学芸文庫)

雄羊 (ちくま学芸文庫)

デリダ『雄羊』からのメモ(続き)
「対話」と「中断」*2を巡って、

アデューのコギト、この永遠の挨拶(salut)が、世界内の対話であれ、最も内的な対話であれ、対話の呼吸そのものに署名しているのだ。このとき喪は、もはやただ待ってはいない。この最初の出会いからただちに中断は死を迎え入れ、死の先回りをして、容赦ない前未来によってそれぞれを喪に服させる。私たち二人のどちらかが、ただ独りで残らなければならななくなるだろうということ、私たちは二人とも、前もってそのことを知っていた。それも、ずっと以前から。最初からすでに二人のうちのどちらかは、中断を乗り越えて続行しなければならない対話をも、最初の中断の記憶をも、自分自身の内で、自分独りで担うように定められてしまっているのだろう。(p.20)
「アデューのコギト」について、訳者の林好雄氏は、『死を与える』のpp.100-101への参照を求めている。adieuは通常は別れの挨拶(それもau revoirとは違って、永遠の別れの可能性を含んだ別れの挨拶)であるが、同時に(場合によっては)出会いの挨拶として使用されることもある。また、「対話」という二者関係に常に神(Dieu)という第三項が介在していることになる。
死を与える (ちくま学芸文庫)

死を与える (ちくま学芸文庫)

その後で、デリダは「世界の終わりのあとの世界」という途轍もない言葉を発する(ibid.)。

というのも、そのたびに、そのたびに単独=特異に(singulierement)、そのたびにかけがいなしに、そのたびに無限に、死は、世界の終わりだからである。それは、世界内の誰かあるいは何かの終わり、ある生あるいは生者の終わりといった、数ある終わりの内の一つであるだけはない。死は、世界内の誰かを終わらせるのでも、数ある世界の内の一つを終わらせるのでもない。死はそのたびに、そのたびに算術の挑戦に立ち向かって、ただ一つの同じ世界の絶対的な終わり、それぞれがただ一つの同じ世界として開始するものの絶対的な終わりを印づけるのである。
そのとき、生き延びる者は、ただ独りで残されるのだ。他者の世界を越えて、生き延びる者は、同様にしていわば世界を越えているか、あるいはその手前にいる。世界の外の世界、世界を奪われた世界の中にいるのだ。彼は、少なくとも自分がただ独りで責任を負う者だと、他者をも彼の世界をも担う定め、消滅した他者と消滅した世界そのものとを担う定めを負う者だと感じている。世界なしに(weltlos)、どんな世界の土地もなしに、以後は、世界の終わりの彼方の地の果てのような、世界なしの世界で、ただ独りで責任を負う者だと感じている。(pp.20-21)
ここでデリダがいっていることが途轍もないと思うのは、通常世界が世界として存立するのは世界が(私の、また他者の)死を超えているという前提があるからだ。私が(他者が)死んでも世界はあり続ける。「世界の外の世界」、「世界を奪われた世界」、「世界なしの世界」は、取り敢えずマークしておくに値するだろう。
これで、『雄羊』のイントロダクションは終わり、パウル・ツェランの「雄羊」読解が始まる。