http://d.hatena.ne.jp/applejuce/20080210
http://d.hatena.ne.jp/muffdiving/20080213/1202838260において、「我慢教信者」と呼ばれたこの著者は、たしかにディテイルのはっきりしないネタ元の新聞記事に対して妄想的な想像力を発揮している。いくら妄想的といっても(或いは妄想的であればある程)非論理的とういうことではなく、或る種のロジックに支配されているわけだが、そのロジックについては、小田亮氏が
と書いていることを想い起こさせる。
ところで、今年の1月は、私生活においても、入院していた家族の転院といった出来事がありました。そういうこともあって、小泉改革の一環としてなされた近年の医療制度改革についていろいろ書きたいこともあるのですが、ここでは最も気になることを一つだけ。それは、介護医療制度や障害者支援制度を含めた社会保障制度の改革という文脈で、「受益者負担」という用語が公然と使われていることです。受益者負担で不公平をなくすという言い方もされます。そこには、人々が感じている不公平感を梃子に、医療費全体を押し下げようとする意図があるわけですが、病者や障害者を「受益者」と呼ぶことによって、不公平感を創りだし、社会的連帯をなくしていく機能を果たしている気がします。そこで創りだされている不公平感って何なのでしょうか。普通の人のように動けること、健常者がふつうに一人でできることが支援でできるようにすること、このことが、自分の受けていない利益を彼らが受けていることになるのでしょうか。実際には、治療や社会保障を受けたとしても、病者や障害者はまだ苦しんでいる弱者であるのに、です。たとえば、准教授が自分とほとんど同じ給与を受けていることに腹を立てた教授が、自分の給与を増やさないのなら、准教授の給与を減らせと要求することがどこか変だと感じる感覚がなくなっているのでしょう。他人が自分と同じようなことができないと気の毒にと同情するけれども、実際に自分と同じことができるようになったり、それを当人たちが要求したりすることには我慢できないというわけです。
http://d.hatena.ne.jp/oda-makoto/20080121#1200907909
私たちは日常的に何らかの準拠集団(reference group)を設定しながら、相対的判断を行っている。ここで行われているのは、メディア等が「受益者」という準拠集団を提示し、その誘いに乗って準拠集団が使用されることによって、「不公平感」が構築されるという事態である。さて、このことは、スラヴォイ・ジジェクが言及していた、米国当局によるグアンタナモ基地の「捕虜」の処遇を正当化するロジックにそんなに遠くはない。「捕虜」たちは「合法的な軍事作戦の一環であった爆撃の対象でありながら偶然生き延びた」のであり、「どのような状況も死に比べればまし」(「人権の概念とその変遷」、p.152)である云々。また、やはり『人権と国家』に収録された別のテクスト(「パリ暴動と関連事項にまつわる、物議を醸す考察」)から少し引用しておこう;
ニーチェとフロイトが共有している概念は、平等としての正義が羨望に基づいているというものである。それは、我々が持っていないものを独占して享受している〈他者〉への羨望である。すなわち、正義の要求とは最終的に、享楽へのアクセスが誰にとっても平等になるよう〈他者〉の過剰な快楽を抑制してくれという要求になる。当然のことながら、この結果は禁欲主義なのだ。(後略)(p.64)
- 作者: スラヴォイ・ジジェク,岡崎玲子
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2006/11/17
- メディア: 新書
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*1:http://watashinim.exblog.jp/4358800/ Cf. http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080130/1201705768
*2:『諸君』に掲載されたが、現物が手許にないので、具体的な書誌学的情報については今わからない。
*3:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071102/1193971451 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070415/1176606885 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070507/1178507913