翻訳の可能性など

雄羊 (ちくま学芸文庫)

雄羊 (ちくま学芸文庫)

デリダの『雄羊』を少しずつ読み始める。2003年ハイデルベルクにおけるガダマー記念講演。
デリダは、ガダマーの「言語の限界」というテクストに言及し、

詩作品(poeme)は、翻訳不可能なものの最良の例であるだけでなくて、翻訳の試練に最も固有な、その試練に最適の場を提供しているのである。おそらく詩作品は、言語の経験、つまり特有語(idiome)――永久に翻訳に刃向かうものであると同時に、翻訳に訴えて、前代未聞の出来事に際してできるかぎりのことをするよう、不可能を可能にするように強く促すものでもある――の経験に適した唯一の場を設定するのだ。(p.14)
「翻訳不可能」の問題に関して、デリダは既にこの引用の少し前で、

私の意見では、成功したとは言わないまでも、はるかに運のいいものであったこの[ガダマーとの]出会い、しかし多くの者の目には失敗に見えたこの出会いの中で、いったい何が、今日なおそれほど無気味な〔unheimlich〕ものにとどまっているのだろうか。出会いがあまりに見事に失敗したからこそ、それは能動的で挑発的な痕跡を残したのであり、その痕跡には、調和と合意に満ちた対話の場合以上の未来が約束されたのだ。
この経験を、私はドイツ語でunheimlich〔無気味な〕と言った。この情動を一語で記述するための適当なフランス語を、私は持っていない。唯一無二の、したがってかけがいのない出会いのあいだに、親しいものであると同時に当惑させる、ときには不安にさせる、かすかに幽霊のような親密さに、ある種の特異な奇妙さが混じって、切り離すことができなくなった。私はフランス語で語っており、あなた方はドイツ語で私の言葉を読むことができるにもかかわらず、私がこのunheimlich〔無気味な〕という翻訳不可能なドイツ語を使うのは、翻訳の限界に対する私たち二人の共通の感覚をここで鮮明にするためでもある。(略)彼[ガダマー]によれば、翻訳の障害が、一九八一年のあの思いがけない中断の本質的理由の一つだった。(pp.12-13)
と述べている。
さて、ナベ経由で、以下のようなニュースを知る。『毎日』の記事なり;

<落語家・夢之助さん>「手話通訳気が散る」島根の敬老会で

10月31日2時33分配信 毎日新聞
 島根県安来市民会館で9月17日に開かれた市主催の敬老会で、独演会をしていた落語家の三笑亭夢之助さんが、舞台に立つ手話通訳者に「気が散る」などと退場を求める発言をしていたことが分かった。通訳は舞台の下で続けられたが、同県ろうあ連盟は「聞こえない人に対する侮辱」と夢之助さんや市に抗議。夢之助さんは謝罪し、市も当日来場していた聴覚障害者3人に直接謝罪した。

 市によると、敬老会には今年70歳となるお年寄りや市民計247人が参加。大きな講演会では手話通訳者をつけているといい、この日も3人を配置していた。

 ところが、市は夢之助さん側に通訳がつくことを説明しておらず、独演会開始後5分ほど過ぎたころ、夢之助さんが「落語は話し言葉でするもので、手話に変えられるものではない」と発言。更に「この会場は聞こえる方が大半ですよね。手話の方がおられると気が散りますし、皆さんも散りますよね」と話し、会場からは笑い声が聞こえたという。

 その後も「どうにかなりませんかね」「皆さんが良いとおっしゃるなら構いませんが。どうなんでしょうね」などと退場を求める発言を続けた。通訳の女性は主催者側に促され、舞台の下に降りて手話を続けた。

 聴覚障害者から知らされた県ろうあ連盟は夢之助さんや市、落語芸術協会に抗議文を送付。夢之助さん側は謝罪文で、発言の真意について「気も散漫になって話を間違えることでお客様に迷惑をかけてはいけないので、手話の方に、私の横でなく、後ろに立つか、座ってくれるのか……との思いで声をかけた」と説明したという。取材に対し夢之助さんのマネジャーは「本人は非常に反省している」と話した。

 昨年の敬老会では漫才コンビ宮川大助・花子」の花子さんが出演したが、手話通訳者は花子さんから「ありがとう」といわれたという。今回参加した聴覚障害者は「手話通訳がつくので夢之助さんの落語を楽しめると期待していたのに」と残念がっていたといい、市も不手際を認め広報11月号に謝罪文を掲載した。【御園生枝里】
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071031-00000020-mai-soci

これは、一般的には聾者の権利に対する不見識に関する話であり、「県ろうあ連盟」の抗議も正当なものであるといえる。しかし、気になったのは、三笑亭夢之助の「落語は話し言葉でするもので、手話に変えられるものではない」という発言である。これは翻訳の可能性/不可能性に関わるものではなかろうか。「気も散漫になって」云々とは次元が違う。落語をトランスクリプトして書き言葉にする、これは日本語内の変換であって、通常翻訳とは言われない。しかし、そこにも何らかのlostとgainが生じる。逆の操作、書き言葉の話し言葉化(朗読など)でも然りだろう。まして、「手話」は日本語とは独立した言語である。逆のことを考えてみる。科白が全て「手話」の映画。公開されるときには、非「手話」使用者のために、字幕、或いは音声による吹き替えが付けられるかも知れない。そのときには、手話は話し言葉には還元できないといった議論が出てくるのかも知れない。
なお、翻訳については、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070620/1182305296http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060826/1156613177http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050703もご笑覧いただければ幸甚なり。


李安の『色、戒(Lust Caution)』*1を観る。但し、妻が待ち合わせに遅れたので、最初の5分くらいは観ていない。劇中劇(主人公たちが香港で上演する〈抗日〉をテーマにした芝居、湯唯が映画館で観る映画)の重要性をマークしておく。特務機関のボスと彼を暗殺しようとするテロリストとの心理的な駆け引きや葛藤という主題からして、『色、戒(Lust Caution)』は〈演技すること〉についてのメタ的映画であるともいえる。Rodrigo Prietoの撮影とAlexandre Desplatの音楽はよし。王力宏の演技は浮きまくり。
『色、戒(Lust Caution)』について、


DENNIS LIM “Love as an Illusion: Beautiful to See, Impossible to Hold” http://www.nytimes.com/2007/08/26/movies/26lim.html?_r=1&oref=slogin
MANOHLA DARGIS “A Cad and a Femme Fatale Simmer” http://movies.nytimes.com/2007/09/28/movies/28lust.html


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