http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070918/1190090519に関連して、また市村弘正、杉田敦『社会の喪失』からのメモ。「私の基本理解では、そもそも社会学は「私と社会」とをつなぐのではなく、むしろ〈私〉に現出する社会的世界を形相的=類型的に問題とし、さらに、この社会的世界が相互主観的な理念化過程によって物象化される機制を解きほぐすための学理でなければならない」という発言*1を承けたというわけではとりわけない。
この本の中で、特に市村氏は「敗北」や「失敗」に拘っている。
僕のなかでは、制度というのは、桎梏とまでいわないまでも嫌なものです。制度という言葉は非常にスタティックな感じがするんです。(p.117)
「鯨の腹*2に入るまい、あるいは出ていこう、というのは、やはり英雄的な強い主体像を前提としているのではないか、という批判もありそうですね」(pp.119-120)、「解放論が見当たらなくなった現在、現状に距離をおくことがますます難しくなっている面があるのではないか、という感じもするのですが」(p.120)という杉田氏の問いかけに対して、
僕はかつて、あらゆる言葉に”ing”をつけていました。そうしないと、すぐに固まってしまうような気がして。社会も、Societyingと呼んでいたほどです。もちろん、誰にも受け入れられないけれど、自分のなかでそうやっていないと、自分の思考が実体化されスタティックなものになってしまうそうなので。
そして、すべての物事が動いている、あるいは動きうる、ということを知るためのきっかけが、敗北だと思うのです。権力過程のなかで、制度的世界のなかで、人々は活動を規制され固定化されていると思っている。ところが、自由に動いていいんだ、動けるんだ、ということが、負け方によってはわかるかもしれない、ということです。(略)
もちろん、敗北主義者ではないので、敗北そのものが大切なのではなくて、敗北した時に、あるいは劣位にある者が敗北した時に、社会のノーマライゼーションがどのようなものとして進行しているかが見えるようになる、ということにすぎません。負け方によっては、単に排除されるだけで終わるかもしれませんが、別の負け方によっては、制度の基礎にある組成や権力の作用に直面するかもしれない。新たな「構成的権力」のあり方が構想可能になるかもしれない。おそらく社会の多数派には見えていないものが見える、ということなのです。敗北の仕方によっては、新たなプラクティスへの道筋がつけられる、というのが二〇代くらいから僕のなかにある固定観念のようなものです。(pp.117-118)
つまり、新たな解放の理念を探すということではなくて、そうしたものがすべて失われた荒地で、少しでも自由でありたいという時に生まれてくる小さな風穴が、負け方の問題です。いわば素寒貧の思考であって、ちっとも英雄的ではない。ですから、安直な解放のヴィジョンなんかもうないよ、というのが僕の出発点なのです。(p.121)
- 作者: 市村弘正,杉田敦
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2005/09
- メディア: 新書
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