新自由主義を支持する人たち

http://d.hatena.ne.jp/kechack/20071022/p1


新自由主義を支持する人々として、「保守主義者」、「都市部の比較的リベラルな中所得層」、それから「企業経営者」と「都市部のエリートビジネスマン層」を挙げている。前2者は最近新自由主義支持から離脱したとされている。新自由主義支持層ということで、もう1つ忘れてはいけないものがある。日本のこれまでノーマルとされてきた労使体制の外側での労働をしている人たち、所謂フリーターや派遣社員の人たち。この人たちは新自由主義によっていちばん痛めつけられている層であるとともに、フリーターや派遣の口は新自由主義によって増えているともいえる。だから、既存の労使体制というか会社組織にどっぷりと浸かってきた人たちにとっては、ドラマ『ハケンの品格』を視てもわかるように、この人たちは自らの仕事ばかりか実存的な居場所を奪いかねない脅威である。

ハケンの品格 DVD-BOX

ハケンの品格 DVD-BOX

また、ホリエモンが逮捕されたとき、東浩紀氏の「ライブドアとオウム?」というテクスト*1から、

熱狂的なデイトレードは、いまの日本社会が構造的に生み出したものだ。同じように、カルトへの沈潜も日本社会が構造的に生み出した。1990年代前半のカルト信者の位置は、2000年代前半の個人投資家へと受け継がれた(誤解のないように言うが、これは別に個人投資そのものがカルトだという意味ではない)。両者はともに、大澤真幸の言葉を使えば、「アイロニカルな没入」で特徴づけられる。だとすれば、かつて宮台真司が「オウムにはまらず終わりなき日常を生きる知恵」を説いたように、今後は「個人投資による一発逆転の夢を見ずに終わりなき日常を生きる知恵」が必要になるのかもしれない。
というパッセージを引用し、「最後の「一発逆転の夢」というのは、何故所謂〈負け組〉層が新自由主義というか〈小泉的〉を支持してしまうのかを考える際の鍵言葉になるような気がする」とコメントした*2。また、今年になってネット的世間を席巻した赤木智弘にしても、実は新自由主義に対してけっこう相性がいいのではないかと感じていた。デッド・エンドともいうべき固定した現状を流動化させたい、そのためには戦争を! という。しかし、新自由主義への支持的なムードにはそもそも反エスタブリッシュメント的な流動化への希求みたいなものがあったことは事実だろう。また、赤木が望む流動化も、わざわざ戦争を起こすよりも新自由主義を推し進めた方がてっとり早いだろうし、そうすればまた憎悪の対象である正社員も消滅に近づくだろう。例えば、日本よりも(社会主義国でありながら)新自由主義化している中国では、正社員は殆どいない。出稼ぎ労働者から外資系の白領、金領まで。中国は或る意味で契約社員の社会であるといえる。高原基彰氏はいう;

現在の中国に日本と同じ意味での「正社員」という概念はほぼ存在しないと言ってよい。辛うじて存在しているのは、どんどん細くなっていく国有部門だけであり、都市部で残っているのは主に、電気・ガス・水道、および軍事関係など、外資の入ってこない公共的な分野だけである。そういうところに入るにはコネクションが必要であるという理由もあるが、普通の若者の就職希望先にはあまり入っていない。あとの民間部門、とりわけ成長・高給部門とされているそれは、アメリカ型の年俸制契約雇用が普通になっている。(『不安型ナショナリズムの時代』、p.215)
また、「中国の新しい中間層」ついて、

彼らは、これまでの中国で初めて、先進国と同じくらいの、人口的厚み、消費能力、そしてライフスタイルを持ったいわゆる中間層として中国の都市部に現れた。しかし、特に日本において誤解されがちなのは、この中間層というのは同時に、将来に対する安定的な見通しを欠いた「社会流動化」・「高度消費社会化」の只中(sic.)で生成している階層であり、ただ豊かなだけではなく不断に「不安」を抱える存在であることだ。(p.214)
と述べる。このような中国的社会に赤木的存在は満足するだろうか。
新自由主義に話を戻すと、新自由主義が様々なところで害悪をなしていることは明らかであるにも限らず、その総体的な批判がなかなか困難なのは、新自由主義に対する(決してバックラッシュではないような)実行可能なオルタナティヴが見えにくいということもあるのだろう。