自動車と尊厳?

昨今あれこれと話題の赤木智弘さんが


私たちは世界標準の価値観の中で生活しているのではなく、所属する共同体のローカルな価値観の中で生活しているのです。
 そして、私は日本人にとっての「車」というのは、人間としての尊厳を表出する極めて大きなファクターだと考えています。日本人の成功体験を具現化してきた「三種の神器」と「3C」と「持ち家」のなかで、直接的にベースである「家」と直接的に結びつかないのは、車だけなのです。
 私は車というものを「家の外部化」であると考えています。つまり、持ち家を持つことが高度経済成長時代の人たちの、社会人としての尊厳を満足させてきたように、車もまた社会人としての尊厳を満たすために、必要不可欠であると考えています。
http://www.journalism.jp/t-akagi/2007/07/25540.html
と書いている。
よくわからない。「尊厳」*1という概念が問題含みのややこしい概念であり、そのことについては議論しない。また、「私たちは世界標準の価値観の中で生活しているのではなく、所属する共同体のローカルな価値観の中で生活しているのです」というのはその通りだと思う。但し、その「共同体」というのは客観的に存在するのではなく、往々にして当人の主観的強迫ではあるが。ここでの主旨は最後の「持ち家を持つことが高度経済成長時代の人たちの、社会人としての尊厳を満足させてきたように、車もまた社会人としての尊厳を満たすために、必要不可欠であると考えています」ということなのだろう。しかし、本当にそうか。私は今迄自動車を所有したことはないし、運転免許だって持っていない。しかし、そのことで自分の「尊厳」が毀損されたと考えたことはないのだ。「車」を買うために「戦争」を起こされたんじゃたまらないぜとも思ってしまう。自動車というのは都会人にとっては趣味の問題であり、公共交通が碌にない僻地の人にとっては必要の問題ということになるだろう*2
さて、「私は車というものを「家の外部化」であると考えています」。土足禁止とか自動車を〈自分の部屋〉の如く考えている人は多いだろうし、たしかに自動車は輸送手段としての足の延長、荷物を運ぶ肩の延長であることを超えて、部屋なのであり、だからこそ、ヘンリー・フォードによって自動車が大衆商品化されると、米国の若者の恋愛やセクシュアリティに多大な変化をもたらした。そういう意味での「家の外部化」なのだろうか。しかし、次の文と「つまり」で結ばれている意味がわからない。
ところで、http://d.hatena.ne.jp/matsuiism/20070726では、大前研一が今の25歳以下の若い衆を「物欲・昇進欲喪失世代」と呼んでいると述べている。その人たちは「車を欲しいとも思わない」という。それは「たんに25歳以下の若者の消費・購買力が以前より減退しているということ」にすぎないのだろう。ここでいう「車を欲しいとも思わない」のは1つの例にすぎないのだろうけど、ちょっと「車」に拘ってみる。上では自動車と「尊厳」は関係ないと取れるようなことを書いたが、公共交通が完備されていないような不便なところに住んでいれば、自動車は移動の自由を確保する上で不可欠だろう。最近になって、公共交通が改善されたということも聞かないので、「車を欲しいとも思わない」というのは、もしそれが本当なら〈引き籠もり指向〉が強まるということだろう。
ところで、「戦争」云々については別に考察してみたいとも思うが、もし本当に切羽詰まっているなら、悠長に「戦争」を待望している暇はないだろう。考えることは別にある。例えばかっぱらいとかさ。