少し以前に、
というのが。
暑くなると、終戦・敗戦記念日のことが想起されます(ああ、強引)。
ふと思うのですが、もしこの記念日が真冬だったら、何がどう変わっていたでしょう。
いや、だんだんこの日が近づいてくると、右も左も頭に血が上ってくるのは、みんな暑さにイライラしているから、のような気がして。
真冬とか、あるいはむしろ、気候の温暖な10月とか、そのへんだったら、もっと穏やかに話ができ……
http://d.hatena.ne.jp/sean97/20070630
それで、深町秋生という方曰く、
また、
とはいえこの8月になると、まるで冷やし中華のように「戦争話始めました」とばかりにあの戦争を語りだすメディアの風潮が好きではない。急にこの月となると昭和天皇の「堪えがたきを〜堪え」という玉音放送や、老人たちがいっせいに「あの戦争は……」と語りだし、テレビの司会者は眉をしかめて平和の大切さを訴えだす。
戦争を語ることは重要だけれど、この「8月になる→戦争を振り返る」という仕組みにはもううんざりだ。月曜にうちの近くのパチ屋がやる「マンデー銀龍祭」のようで芸がなさすぎる。ある日本レゲエミュージシャンは「この季節になったら、必ずおれは戦争について考えるようにしている。日本人なら当然のことだろ?」と言っていて、あの手の連中の単細胞ぶりに改めて吐き気を覚えたものだった。
http://d.hatena.ne.jp/FUKAMACHI/20070813
これを読んで、(たしかどこかの研究会でのコメントだったと思うが)濱日出夫氏が民族主義者にしても平和主義者にしても、何とか主義者という場合、フルタイムの主義者とは限らず、パートタイムの主義者ということもあり得ると語っていたことを思い出した。
……という自分たちが「やられた。何かされた」という日にちを覚えていても、「やった。ぶっ殺した。はめた」ときの日にちを同じくらいのバランスで覚えていなければ、あまり意味がないような気がする。何も知らないよりも返って歪で恐い。それこそ外国人の視点からすれば、ちょっと異様だろう。ナチスドイツはヨーロッパを地獄に変えたが、「ベルリン陥落でロシア兵にレイプされた」「スターリングラードで冬将軍に襲われた」「Dデイでアメリカ兵に蜂の巣にされた」ということを延々と描いて、「ああ、我がドイツはひどい目にあったなあ。まったくナチスの野郎どもがおれ達をだましやがってさあ」というような作品ばかり作られていたら、「お前ら、ちょっと待てよ……」とツッコミを入れたくなるのは自然だろう……というかホントにそういうことをしているからネオナチなんてものが力をつけるのだが。「別にみんながみんなナチスに心酔したわけじゃないんです」とか妙なこと言い出すし。嘘つけってんだ。
左翼による自虐史観というのがあるが、ホントに自虐なんかしてたかなあと疑問に思う。「軍部が悪かった。軍国教育が悪かった。女子どもは犠牲者。国民はかわいそうでしたねえ」と視聴者や読者の心を慰撫し、免罪符をばんばん発行している面もかなりあるだろう。南京陥落にどれだけの人が熱狂したのかとか、国防婦人会の活動や軍国少年らの熱狂がどれほど戦争を支えたのかとか、右翼や軍人が首相をぶっ殺そうとしたときに、何万人もの国民が署名嘆願して連中の味方になったとか、ホントは国民みんな戦争したかったとか、そういう不都合な欲望や行動を棚上げして、ひたすら特攻や空襲や原爆といった戦争末期の異様さばかりをフィーチャーしてもしょうがないと思う。8月戦争話によって「ああ、平和ってのはありがたいなあ。そう考えるとがぜんメシがうまくなってきた。毎日平和に過ごせるというのはありがたい。元気がでた!」というなんだか現代人の癒しや新興宗教の現世利益みたいに消費されているだけのようで、なんともいえない気持ちの悪さを感じるのでした。
ここでは、マスコミにおける「戦争」の語りが季節限定であるという論点とそれが被害者話に偏っているという論点は取り敢えず分けて考えるべきかと思う。前者は一回的である〈歴史〉が如何にして反復的である日常生活に取り込まれるのかという問題と関係がある。それはカレンダーに書き込まれることによってだろう。一回的な歴史的出来事はカレンダーに書き込まれて、毎年決まった日に回帰してくることによって、(少なくともその日付の周辺においては)忘れようにも忘れることができなくなる。勿論、その出来事によって直接トラウマを負ってしまった人にとっては、カレンダーとは関係なしに、過去は過ぎ去らず、その現在を脅かし続ける。しかし、現実には直接的なトラウマを取り敢えず免れている人の方が多い。しかし、戦争のような出来事の場合、だからといって、忘却していいということにはならないだろう。だから、カレンダーに書き込まれて、毎年決まった日に回帰してくるというのは、(社会的なレヴェルでの)忘却を防ぐという効果はそれなりにあるのではないか。
数千年前の耶蘇の誕生や死・復活を(異教徒までもが)記憶し続けているのは、クリスマスやイースターがカレンダーにしっかりと書き込まれているからである。
また、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070806/1186396462も参照されたい。