「対称性」に関してメモ

承前*1

張江さんが社会科学基礎論研究会のシンポジウム「差別の現象学」でのご自身の発言について書いていらっしゃる*2
曰く、


私は「対称性」をある種の規範とする行為場面に、別段、忌避感はない。だが、議論(差別論)において、もしも「対称性」に規範性のはたらきをもたせてしまうとしたら、かなり問題ではないかとおもえたからだ。
 この点はぼやけたままだったが、どうしても気になった。
 個々人が「主体」であること、これを、まずは理路の出立点に据える。この流儀に異論も反論もない。だから、それが前提的な扱いであったとしても、問題ではないだろう。
 なぜ、こんな当たり前のことをいうのかというと、むろん、この出立点が差別論の地平を支えるからだ。
 換言すれば、差別論は必ず〈非主体化させられた、つまりは、そのように強要された非主体的な主体〉は〈主体〉へと回復させられるべきという〈解放のイメージ〉をどこかで保持していなければならないということだ。
 だが、それは「非対称性」から「対称性」への〈回復あるいは実現のイメージ〉と同値ではない。
 この点を明確にしておかないと、差別論は〈主体であることを強要する議論・運動〉にもなりかねない。
 むろん、そこで問われるべきは、この〈主体〉とやらの内実になるはずだ。
勿論、私は現場に居合わせなかったし、報告者お二人の事前の要旨*3を読んだだけなので、ちょっとアレなのだが、取り敢えず張江さんに触発され、自分の考えを確認しておこうと思った。
「対称性」と「非対称性」というと、私はhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070320/1174417738で言及した、和蘭の人類学者コルネリウス・アウエハントの

  8≠4+4
=5+3
という「数式擬き」を思い出してしまう。「4+4」が「対称性」を、「5+3」が「非対称性」を表すのはわかりやすい。勿論、「対称性」の恢復は必要だが、それを前提に、「対称性」と「非対称性」のどちらも前提としている二項対立を問題にしていく方が重要だろうとも考えている*4。また、「対称性」/「非対称性」ということに踏みとどまるなら、構築する/される、表象する/される、意味づける/づけられるという関係の「対称性」/「非対称性」が重要な論点なのではないかとも思う(勿論、〈格差〉という意味での「非対称性」がどうでもいい問題だとは思わないが)。
さて、「主体」だが、フーコーアルチュセールの後にあっては、「主体」をかつてのようにお気楽に論ずることはできない。「主体」は主体化の効果であり、また主体化は臣民化でもある。現実には、様々な二項対立の一方を担う者として主体化される(矛盾律の圧制!)。ということは、主体化のされ方を問うことは二項対立の存立を問うことに通じることになる。また、主体化も主体化する/されるという関係の裡で行われる。ここにも「対称性」/「非対称性」が入り込んでくるというのはいうまでもない。ここで、志向性の分析を初めとする現象学の道具立てが重要な働きをすると思うのだが、如何だろうか。


今日これから、8時半の飛行機で広州へ。それから深zhen、香港、北海。上海に戻るのは8月4日頃。