走者

http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/8a92fb0daf4aab99b262c3a3ade05ebf


例の布引洋*1のblogなのだが、ここで問題にしたいのは、布引洋本人ではなく、そこに巣食う「Runner」なる者のこと。「走者」、コメント欄にて曰く、


2009-11-28 14:52:34
左翼なのに解放同盟に気付かないのは、左翼は左翼でもネット左翼だからでしょう。あるいは、別の言い方をするとカウチポテト左翼だからでしょう。
しかし、そうやって、ネット上でも問題行動を続けていると、彼らもいずれ気付くでしょう。

今日、解放同盟の言動にそれなりに接したことのある人なら、「差別がなくなったら困るのか」と疑問を持つ人は多いと思いますよ。
いらぬ口実を与えないようにするためにも、誰が同和地区出身者なのかをわからなくしてしまえばよいのです。
しかし、解放同盟では部落差別を身分差別ではなく、民族差別として規定しているようです。
人種や性別は自然現象なのでなくなりませんが、部落は社会現象なので本質的に消え得るものです。
それを阻止するために、無理矢理、民族化しようとしているとしか思えませんね。

「部落差別」が現に存在するということは、ほかならぬ布引洋(の言説)の存在によって証明されているといえよう。
さて、後半部はそのロジックを辿るのが(私にとっては)困難なのだが、それよりも「解放同盟では部落差別を身分差別ではなく、民族差別として規定しているようです」というのを読んだとき、!と?が20個くらい飛び出してしまった。勿論、走者に文献的証拠を挙げる責任があるというのはいう迄もないが、どなたか部落解放同盟が部落差別は「民族差別」だと公的に主張している証拠を提示していただくとありがたい。私の知識によれば、部落問題を「民族」問題だと主張すること、これは寧ろ差別者の手口だからだ。部落民を〈異民族〉として〈日本人〉からカテゴリー的に追放すること。勿論、矢切の渡しじゃなかった、八切止夫太田竜以来の〈先住民史観〉*2に従えば、被差別民は外来の大和朝廷に征服された日本列島原住民の子孫ということになる。部落解放同盟が自らの史観として〈先住民史観〉を採用しているという証拠はあるのだろうか。社会思想史家で民俗学者沖浦和光氏は部落解放同盟のシンパとしても知られているが、異民族としての「サンカ」という幻想を打ち砕く著作を発表している(『幻の漂泊民・サンカ』*3)。
幻の漂泊民・サンカ (文春文庫)

幻の漂泊民・サンカ (文春文庫)

「人種や性別は自然現象なのでなくなりませんが、部落は社会現象なので本質的に消え得るものです」。前半部については、構築主義以降の学的地平を生きる私たちにとっては素朴すぎるとだけ言っておこう。後半部については、そうだよねと。しかし、「部落」が消滅可能性を持つという、それ自体は正しい言明と、その前にある「誰が同和地区出身者なのかをわからなくしてしまえばよいのです」という言明を組み合わせると、かなり恐ろしい帰結が見えてくる。「誰が同和地区出身者なのかをわからなく」する――これは、今更走者に言われなくとも少なからぬ部落民によって実践されてきた(いる)ことだ。『破戒』の丑松はそのために米国へと旅立った。実際に、そのようなしがらみから逃れるために故郷を出る者は沢山いる。しかし、その代償として、自らの故郷や先祖について語る権利を自ら封印しなければならない。丑松がそうであったように。一方では、自らの故郷や先祖について語る権利を自明なものとして行使できる人々がいて、他方にはその権利を、生き延びるために自ら封印しなければならない人々がいる。この非対称性が差別なのだ。ただ、それは個々人の実存的な決断でもあるので、他人が口を挟むべきことではない。しかし、「部落は社会現象なので本質的に消え得るものです」というのを併せて読むと、走者はもっと別のことを考えているのではないかと疑ってしまう。勿論、過疎化や高齢化によって、被差別部落のみならず、日本の村落社会や地域社会が「限界集落*4として消滅の可能性を有している。「わからなくしてしまえばよいのです」という能動性からすれば、そのような無為による消滅ではなく、もしかして積極的に「部落」を消滅させることを妄想しているんじゃないかと勘ぐってしまう。ポル・ポトの道!
破戒 (岩波文庫)

破戒 (岩波文庫)