鴻一郎ではなく弘蔵

宇野弘蔵についてはhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070207/1170874085でも名前を挙げたことがあるのだが(笑)、大坂洋という経済学者の方の


宇野弘蔵再読」http://d.hatena.ne.jp/osakaeco/20070513/p1


所謂「宇野理論」についての(マルクスヒルファーディング、レーニンを踏まえての)纏め。曰く、「宇野にとっての資本論の対象は微分方程式による動学の分析における定常状態にあたるもので、定常状態がどのようなものであるかわかっても、システム全体のふるまいはわかりません」。
また、門外漢ながら、最後に述べられている


90年代、マクロ経済学をミクロ的に基礎付けようとする動きと、ゲーム論の進展が同時に主流派の経済学の中で進行しました。ゲーム理論は多様な組織形態や市場構造を分析可能にし、多くの経済学者にとって、新古典派的な経済学の勝利としてうけとられました。

ゲーム理論であきらかになったことは、ゲームのルールとして記述される市場構造や組織形態がちょっとちがえば、まるっきりちがうゲームの解が導きだされることです。これは現実の経済がかなり多様でありうることを示唆するものです。

ところが、どういうわけか、このようなゲーム理論の「勝利」はなぜか、ゲーム理論以前の完全競争市場による分析への自信をもつよめているように思えます。まっとうに考えれば(えー、あなたたちはまっとうでないのです)、ゲーム理論の示唆する多様な経済状況のどれが現実にあてはまるのかということを考えるべきとなるのでしょうが、どういうわけだか、ゲーム理論ミクロ経済学勝利→市場経済万歳(ここでゲーム理論わすれて完全競争)というへんちくりんな思考回路がまんえんしていると思います。(まっとうな経済学者が皆無だと主張するわけではありません。と、逃げておこう)

これは、ゲーム理論によって多様な状況を分析可能になったにもかかわらず、「総体としての経済が現状でいったいどうなの」という問いに誰も答えていないからだと思います。宇野はそれへの回答は宇野にとってのマルクスがしたように現実の資本主義経済の運動の傾向から抽象するという方法をとりました。宇野の方法の妥当性は別として、少くとも、宇野が90年代以降の主流派経済学が軽視した問題を提起しているのはまちがいないと思います。

という指摘に関心を惹かれたので、メモしておく。