生産性

http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20070510/p1の余白に

生産性が上昇するとはどういうことかといえば、いままで10人必要だったのが2人で済むようになること。いままで労働者1人あたり3個しか作れなかったのが6個作れるようになること。こうした事態を生産性が向上したというのだろう。技術という面で見れば、凄いねということであり、労働者の根性(人間力?)という面で見れば、痛みに耐えてよく頑張った、感動した!ということになるのだろう。しかし、別の面で見てみると、前者の例では、8人分の職がなくなり、〈余計者〉が新たに8人できてしまうということだ。後者の例では、その分価格が下落して、実際に得る収入は下がってしまうということもありうる。また、折角多く作れるようになっても、売れなければゴミを作っているのと同じである。だから、生産性の向上というのは、根性論的にはともかく、経済的にはそれ自体でいいとも悪いともいえない。それが肯定的に捉えられるのは、余剰労働力を吸収できる十分な労働需要が存在していること、増産した商品を購買可能な十分な市場が存在することを前提としている。また、一般に生産性というとき、質は捨象されていることが多いが、実際には質の高いもの或いはサーヴィスというのは生産性を無視してしか生み出すことはできないだろう。だからこそ、質の高い物は高価なのだといえる。だから、贅沢をするというのは生産性を無視することによって、より多くの雇用を保障することだといえるのかもしれない。昔の王侯貴族はこのようにして経済的な貢献を行っていたといえるし、江戸時代の吉原も(田中優子先生によれば)その存在自体によって多くの関連産業のビジネスと雇用を産み出していた。
ところで、中国のレストランというのは一般に従業員が多い。日本だったら、ワン・フロアを1人か2人で仕切っているんじゃないかと思うところを、その数倍のウェイトレスがいる。だから、暇な時間帯だと、客よりもウェイトレスの数の方が圧倒的に多いということになる。生産性は低く、事実驚くほどの低賃金なのだが、それでも余剰労働力を吸収する社会的な仕方のひとつといえるのかも知れない。