農民社会へ?

「持たない、稼がない、稼がせない」http://d.hatena.ne.jp/chnpk/20110603/1307062509


最後まで読むと、実はアディダスの靴を買わせるための釣りなんだよね。
でもいいや。少しコメントしてみる。


その昔、マルサスは著書「人口論」のなかで、人口は急激に増加を続けるから供給が追いくことはなく、人類は常に飢餓に直面し続けるという陰鬱な予言をした。マルサスの死後、主に技術革新による生産性の向上によって供給量は需要量の増加を上回って増え続け、現代に至るまで貧困は暫時解決に向かっているから、要するにこの予言は見事に外れたわけだが、今日においては全く逆の理由から似たような陰鬱な予言をすることができる気がしている。即ち、生産性は向上し続け経済の産出量は増大するから、人類は常に失業に直面し続ける、という。

生産性が向上すると、同じ量をつくるのにも労働力が余るというのは当然のことだが、新しい産業が芽生えれば余剰な労働力を吸収しながら、さらに経済を発展させることができる。一次産業から二次産業、二次産業から三次産業、最近では情報通信やソフトウェア関連の産業が四次産業と呼ばれるらしいが、生産性が向上するにつれて産業が高次化してきた。ただ、高次の産業ほど一人あたりの生産性が高く、それ故必要とされる労働力が少ない傾向があるように感じるのである。

例えば、Google情報通信産業を代表する世界的な大企業だけれど、従業員はたった2万人程度しかいないという。世界中の数億人のユーザーを虜にするWeb検索やWebメールなどの革新的なサービスが、たった2万人によって提供されているのだ。amazonにはGoogleよりも若干多くの労働者が就業しているが、それでも3万人程度である。ちなみに我が国が誇るスーパーコングロマリット日立グループの連結従業員数は30万人超だが、時価総額ではGoogleの1/10しかない。

よって、世界的にみても労働需要(採用枠)は減り続けるのではないかと感じているところであるが、日本国内に限ればその傾向は更に顕著である。四次産業などと呼ばれる産業の代表的な企業はほとんど米国に集中していて日本国内ではほとんど育っていないし、二次産業でもアジアの安い労働力に職を奪われている。いま国内で積極的に労働力を確保している産業というと介護くらいだが、介護という仕事は何かを生み出しているというか、社会的なコストなのであって、その薄給ぶりたるや目を覆うばかりである。

供給量が需要量を超えたそのときから、生産性の向上は失業の原因であり続ける。世界に先駆けて成長がとまってしまった我が国日本では、ワークシェアが高度に発達した結果、米国よりも失業率は低くおさえられているが、そんな日本でもついに失業率の高まりが問題化してきた。来春の新卒内定率は、前年よりなんと12.6ポイントも低い35.2%だそうだ。そして今後もグロオバルな資本競争の結果、生産性は向上し続けるだろうから、失業率の悪化という傾向はこの先もずっと続くのではないだろうかと思うわけだ。

これはつまり、完全に椅子取りゲームだ。21世紀は椅子取りゲームの時代なのである。

先ず「二次産業」と「四次産業」が語られていて、第三次産業が(「介護」を除いて)抜け落ちているのはどういうことなのかということを突っ込みたい。第三次産業(サーヴィス業)はレストランやホテルだけでなく、教育やコンサルティングから風俗業までを含み、今や先進国においては大方の人が第三次産業(サーヴィス業)に従事しているのでは?*1 第三次産業(サーヴィス業)の生産性は当然低いが、それはサーヴィス業が人間相手の商売であり、生産性とクォリティがトレード・オフの関係にあるからだ。勿論、サーヴィス業でも生産性のロジックの浸透は強まっており(第三次産業第二次産業化)、サーヴィス業においてこそブラック企業*2が多いわけだが、サーヴィス業における生産性の過度の強調は産業としてのサーヴィス業の自己否定に繋がりかねない。
さて、生産性悪化と失業率上昇の関係だが、それは目新しいことではない。資本家的生産様式がそもそも抱えている自己矛盾の一つと言えるかも知れず、IT革命が起こる100年以上前、上で言及されているマルサスが『人口論』を刊行した数十年後に、実はその矛盾は露呈してしまっている。生産性が向上すると何が起こるか。市場が飽和し、余計者となった買い手のない商品、投資先のない資本、雇い手のない労働者が残る。19世紀における解決は帝国主義だった。国内において余計となった商品、資本、労働者の行き先として殖民地があるだろうというわけだ(Cf. アレント全体主義の起源』(第2部「帝国主義」)、また川崎修『アレント 公共性の復権』、p.59ff.)。さらに、20世紀におけるフォーディズムも過剰な生産力への対処という側面があるだろう。今度は(帝国主義とは逆向きに)それは国内で処理されることになる。まあ、フォーディズムにおける大量生産による安物の大量消費というアレンジメントも既に破綻しているといえるわけだが。
人口論 (中公文庫)

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The Origins of Totalitarianism (Harvest Book, Hb244)

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アレント―公共性の復権 (現代思想の冒険者たち)

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それから、「椅子取りゲームの時代」の「道徳」というのが提示されている。最初の「持たない」というのは飛ばして、2番目から;

次に、稼がないこと。

持つことをやめればそこまで稼ぐ必要がなくなるということもあるが、そもそも椅子取りゲームの時代にあって、他人よりも多くを稼ぐということは、他人を出し抜き、蹴落とし、騙し搾取することに他ならないのであって、極めて非道徳的である。我々はいくら貧しくなったとしてもそうした悪行に手を染めてはならない。ボロを着てても心は錦というやつである。

基本はやはりワークシェアだ。メールは非常に便利なコミュニケーションのツールだが、便利さに胡坐をかいて無駄に生産性を向上させてはならない。メールの利用に際しては、個人情報保護などの屁理屈をこじつけて、二重三重の宛先チェックやプロクシサーバーを活用したセキュリティ体制の構築を義務付けよう。そうすればまた雇用を生み出すことができるではないか。当然、そうして生み出された雇用は何を生み出すものでもないから、言うなれば一脚の椅子に複数人で腰かけるような行為に他ならないが、椅子が減っていくのだからしようがない。仲良く分け合うしかないのである。

当然、他人にも稼がせてはならない。

もし、自分だけ稼ごうなどという非道徳な輩がいたら、我々は全力でその足を引っ張る必要がある。これは嫉みではない。新しい道徳であり、社会正義だ。新時代においては、ものを所有することよりもむしろ、ものを創り出すことのほうが希少な権利となるのだ。他人の権利を踏みにじるような行いは、糾弾されて然るべきである。

これもdeja vuなのだ。農民社会の道徳律。以前挙げてみた*3フォスターのテクストをまた提示してみる;


“Peasant society and the image of limited good” American Anthropologist 67, 1965, pp. 293- 315

“The Anatomy of Envy: A Study in Symbolic Behavior” Current Anthropology 13, 1972, pp. 165-202



フォスターによれば、農民社会(peasant society)に生きる人々にとって世界は閉じられており、それ故に世界内の諸資源は限定されている(limited)。限定されているのは物質的な諸資源だけでなく、名誉とか愛といった非物質的な諸資源も同様である。そこにおいて社会関係を調整する基本的な情動は「妬み(envy)」であるが、フォスターは、妬みは屡々「道徳的憤激(moral indignation)」のかたちを取ることもあるという。「あいつらだけずるい」ということだ。勿論(全体としての)現代日本社会を農民社会として特徴づけることはできないだろう。しかし、農民社会(日本風に言えばムラ社会)において形成された心性は、その基盤となる社会編制が変容しても、変形を蒙りつつ残存して、それなりの社会学的・心理学的機能を果たしているということは十分に考えられる。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100527/1274940938
日本的農民社会(ムラ社会)を描いた本として、きだみのるの『気違い部落周游紀行』(タイトルえぐいぜ!)と『にっぽん部落』をマークしておく。また、日本が農民社会化するとしたら、〈富の蓄積〉はキツネ等の妖しい動物の仕業として理解され、富裕層は妖しい動物を操る〈憑き物筋〉として差別されることになるだろう。〈憑き物〉*4については、吉田禎吾『日本の憑きもの』*5小松和彦『異人論』、『憑霊信仰論』*6を取り敢えず。
気違い部落周游紀行 (冨山房百科文庫 31)

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にっぽん部落 (1967年) (岩波新書)

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異人論―民俗社会の心性 (ちくま学芸文庫)

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憑霊信仰論 妖怪研究への試み (講談社学術文庫)

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