「階層」って言ったら負けかも

内田樹「階層化する社会について」http://blog.tatsuru.com/2010/11/10_1216.php


内田氏の主張の是非を問うことは後回し。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101023/1287803171で、玉野和志氏の『創価学会の研究』を引きながら述べたことに関係する。内田氏のこのテクストに限らず、最近「階層」という言葉を使う人は多い。他方階級という言葉はどうか。〈教条的〉といってもいいちょっとアレな左翼以外はあまり使わないのではないか。不図思うのだが、「階層」という言葉を使った時点でもう負けなんじゃないか。社会学者や経済学者が分析のトゥールとして使うならともかく、その分析対象たる生活者が使った時点で。階級の分割は質的且つ非連続的である。それに対して、階層は量的且つ連続的。例えばマルクス主義的に言えば、階級は生産手段を所有している/いない、コントロールしている/いないといった基準によって分割される。そういう小難しいことを言わなくても、雇う側と雇われる側では立場が違うよねといえばわかりやすいか。他方、階層という概念では、所得という指標を使うにせよ、職業の社会的威信その他の指標を使うにせよ、複数の指標を組み合わせるにせよ、諸個人はいちばん上からいちばん下までの線分上に連続的に配置されることになる。階級の場合だと、同じ立場(階級)に置かれた人たちが団結権を行使して、バーゲニング・パワーを高め、自分たち、さらには自分と同じ階級の労働条件や社会的地位を向上させていくということにつながりやすいとはいえるだろう。階層の場合はそうではないのではないか。内田氏は「階層社会とはいえ、一定の流動性は担保されており、当たり前のことだが、そのパイプラインはただ「学ぶことができる人間」にだけ開かれているのである」という。「パイプライン」というメタファーは山田昌弘希望格差社会*1でも使われていたが、「蜘蛛の糸」という芥川龍之介的なメタファーの方がいいのかも知れない。「パイプライン」を通って、或いは「蜘蛛の糸」を伝って伸し上がるのはあくまでも〈個人〉なのだ。勿論、「蜘蛛の糸」がぷっつり切れてしまって奈落の底ということになっても、それは個人の〈自己責任〉ということになる。階級においては他人はともにスクラムを組む仲間ともなるが、階層ではそうはいかない。「パイプライン」の幅や「蜘蛛の糸」の数が限定されているので、自分が伸し上がるためには他人を蹴落とさなければならないこともありうる。

創価学会の研究 (講談社現代新書)

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蜘蛛の糸・杜子春 (新潮文庫)

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階級については、それが前提としていた正規雇用の労働者さえもエリート扱いされるような状況では、その信憑性構造(plausibility structure)は大いに脆弱化しているといえるだろう。他方階層にしても、「パイプライン」の幅があまりにも狭くなってしまえば、みんなの伸し上がってやろうというアスピレーションが萎えてしまう。「パイプライン」の幅を拡げるには、同じ立場の者同士の(階級の原理に基づいた)団結が必要である。つまり、階級は危機であると同時にチャンスもあるわけだ。また、階級と階層が(原理として)対立するとは限らない。所得が倍になれば同じ階層とはいえないだろうが、だからといって労働者(サラリーマン)がブルジョアになれるわけでもないのだ。