舞城王太郎『阿修羅ガール』を巡るメモ

阿修羅ガール (新潮文庫)

阿修羅ガール (新潮文庫)

舞城王太郎の『阿修羅ガール』(新潮文庫)を読み終わったのは(太陽暦の)年末、日本から帰ってきた直後である。舞城氏の作品をほかには読んでいないので、ほかの作品とは比較できない。
一昨年、石川忠司『現代小説のレッスン』
現代小説のレッスン (講談社現代新書)

現代小説のレッスン (講談社現代新書)

に言及したが*1、石川氏はそこで舞城王太郎を現代小説における「内言のエンターテイメント化」の例として採り上げている。そこでは先ず、「端的に言ってしまえば、村上春樹から自己の肥大化=世界の内面化を受け継ぎ、阿部和重からペラい言語の夜郎自大性、およびペラさならではの痛快なドライブ感や饒舌な「勢い」を受け継いだ小説家が舞城王太郎である」と決め付けられている(p.178)。また、「舞城のすべての作品を特徴づけるのは幼児的ならぬ」「「胎児」的な全能感=究極的に肥大化した自己(内面)の絶対性だと言っていい」(p.180)。
さて、『阿修羅ガール』であるが、この小説は第2部「三門」の「グルグル魔人」という章以外は主人公の女子高生「アイコ」によって一人称で語られている。第1部「アルマゲドン」と第3部「JUMPSTART MY HEART」を挟んで、第2部「三門」は臨死状態に陥った「アイコ」の幻想の記述である。臨死状態を通過することによる精神的成長を描くということでは、ルイス・シャイナーのロック・オタク・ファンタジー『グリンプス』
グリンプス (創元SF文庫)

グリンプス (創元SF文庫)

と共通しているのかも知れない。ところで、私が違和感を持ったのは、「グルグル魔人」という章なのだ。「グルグル魔人」こと「大崎英雄」は(三つ子の)「真一くん浩二くん雄三くんを連れ去って殺してバラバラにして、その遺体を束にして[多摩川の]川原に捨て」(p.105)、さらに、

(略)グルグル魔人は吉羽さんちの三つ子ちゃんを殺すまでの二年間に猫を七匹以上、犬を四匹以上殺して死骸のそばに「グルグル魔人参上」って書いた手紙を残していた。「グルグル魔人」を描いたらしい絵も時々あって、それはなんかよく判んない変な渦巻きの絵だった。つーか明らかに酒鬼薔薇聖斗の「バモイドオキ神」やら、何とかという奴の「ジャワクトラ神」やらのパクリだった(p.106)。
ともかく、「グルグル魔人」=「大崎英雄」は誰もが共感しないであろう人間の屑みたいな〈ニート野郎〉として描かれる*2。「グルグル魔人」という章では、その「グルグル魔人」が一人称で語る。そして、臨死状態の「アイコ」が「グルグル魔人」の意識に侵入する。このことに文句はない。小説なんだから。しかし、何故「グルグル魔人」の視点なのか。「アイコ」の侵入も「グルグル魔人」の視点による侵入される(もっと適切に言えば他人の生き霊に取り憑かれる)経験として描かれる*3。この部分で「アイコ」の物語という一貫性が崩れてしまうとともに、「アイコ」がいきなり赤の他人の意識に侵入してしまう時の驚きとか戸惑いは描かれない。それが不満。臨死状態における無意識の噴出=発見ということとは次元を異にする筈の他人の意識への侵入の驚きはスルーされて、第3部「JUMPSTART MY HEART」の最初の節では、

我思うゆえに我ありって言うけれど、もし自分と他人がどっかでくっついていて、相手の内側にお互い入ってこれたりするんだったら、ホントに我思ってるの?ってことになる。我思ってるつもりで、実は別の誰かが思ってることもありえる訳だから、我思ってると我思ってるけど、我思ってるんじゃなくて彼思ってるかも知れない。じゃあ我ありってことにならない。
誰も皆、本当に自分が存在しているかどうかなんて判んないはずなのだ。それに皆、気づいていない。私とおんなじ体験をしてないせいだ。私はもう判ってる。おかげで何が本当で何が嘘なのかさっぱり判らなくなったけど、判んないだってことだけは判った。
で、我思う我ありってのが私の中で壊れちゃった今、じゃあどうするかってうと、どうもしない。我ありってことが疑わしくてもいい。つーか、我なくてもいい。自分の存在が確信されなくても支障をきたさない(pp.317-318)。
と、「アイコ」はクールに〈コギトの崩壊〉を省察しちゃっている。おいおい。
石川氏は、

どんな全能感に満ちた文章であれ、続けているうちに次第に何がしかのルール、スタイルや物語内容を規制するルールが自生的に立ち上がってくるはず。だが舞城はいかなるルールの一貫性も最終的には認めていないのだ(p.184)。

舞城王太郎の全能感とはたんなる全能感なのではなく、ひとつの全能感に満ちた文章すらさらに上位の視点から任意に切断し、まるごとチャラにしてしまえる絶対的な全能感で、とりわけ『九十九十九』は生命体としての誇りとその歴史を平気で踏みにじる小説だ。完全に好き勝手をやっているかに見えるダダイズムシュルレアリスムの詩作品ですら、そこには一定の「ルール」が存在するのに対し、あくまでも比較的不自由な「小説」という形態でもって、しかもウィリアム・S・バロウズの『ソフトマシーン』や『ノヴァ急報』みたいな出来損ないの散文詩にもならず、絶対的な「身勝手さ」(フリー・フォーム)を実現し得た舞城の達成は空前絶後であろう(pp.185-186)
と書いている。そこまで言われてしまえば仕方がない。だが、ちょっと待て。ここで言われる「空前絶後」の「達成」というのは新しいことではなく、間テクスト性やら脱構築やらによって既に殺戮された筈の万能的・絶対的作者という形象ではないか。しかも、その〈復活〉は登場人物のコギトをずたずたに切り裂くことによって、うら若きコギャルのコギトを生贄にすることによって達成されているのだ。
こう考えてみて気づいたのだが、作者の分身として小説の中に送り込まれたのは「桜月淡雪」というオタクっぽい霊能者であって、実はこの小説の語り手はこの「桜月淡雪」なんじゃないか。
阿修羅ガール』という小説のもう一つの特徴は東京都の府中及び調布付近というトポスへの拘りである。併録された「川を泳いで渡る蛇」はこの地理的トポスへの拘り感がさらに凝縮されている。小説家の「僕」とその家族を巡る切迫感と投げやり感に溢れた好短編だと思う。

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050630

*2:そういえば、この小説が書かれたのは「ニート」という言葉がブレイクする以前だ。石川氏も「グルグル魔人」のことを「プータロー」と呼んでいる(p.188)。

*3:ただ、このことによって、他人の意識への侵入という出来事が「アイコ」の主観的妄想には還元不可能な物語の中での客観性を獲得しているとはいえる。