『病いの哲学』

最近、小泉義之『病いの哲学』(ちくま新書、2006)を読了した。

病いの哲学 (ちくま新書)

病いの哲学 (ちくま新書)

先ず目次を書き写しておこう;

はじめに
一 プラトン尊厳死――プラトンパイドン
二 ハイデッガーと末期状態――ハイデッガー存在と時間
三 レヴィナスと臓器移植――レヴィナス存在の彼方へ
中間考察――デリダ
四 病人の(ための)祈り――パスカル、マルセル、ジャン=リュック・ナンシー
五 病人の役割――パーソンズ
六 病人の科学――フーコー
あとがき
本書で目指されているのは先ず「死に淫していく哲学」の論駁。それはまた「死を最も重々しいと見なすだけでなく、死をめぐる議論も最も重々しいと見なす哲学」であり、「死をめぐって議論を突き詰めるなら、真と善と美を手中にできると思いなす哲学」(p.147)である。或いは著者がパスカルを踏まえていう言葉を借りれば、「死よりも苦しい苦痛、死んだほうがましな苦痛があると信じて疑わない」(p.164)哲学といえるかもしれない。また、

この死に淫する哲学には、犠牲の構造が含まれている。そこでは、これは自殺ではないと言いながら誰かが自らに死を与え、これは他殺ではないと言いながら、誰かが誰かに死を与える。そうして、何かのために、誰かのために、誰かの死が犠牲として差し出される(p.147)。

死に淫する哲学は、末期の病人のことを、死ぬこと以外に為す術のない、死ぬしかない人間と決め付けている。治療不可能と宣告しさえすれば、善をなす他者の手によって死を与えること以外に、何も為すべきことも考えるべきこともないと決め付けている。だからこそ、死ぬことに意味を賦与したがる。自らに死の意味を与えたがって、死に淫するのだ。しかし、加療と死の贈与以外に、善をなす仕方がないと決まったわけではない。脳死状態・植物状態・末期状態が、そのままで意味を持たないと決まったわけでもない。とはいえ、犠牲の構造において死ぬことに意味を見出すことは、死まで及ぶ安心立命の幻想を与えるので、必ずしも悪いことではないと言えるかもしれない。しかし、犠牲の構造は、死へ向かうこと、死なないで生きていることを無意味と決め付け、あっさりと、ある種の人間を死へと廃棄してしまう。その残酷な過程は、さまざまな幻想や言動によって飾り立てられている。例えば、「死ぬ権利」「死ぬ自由」をとってみる。死ぬ権利に対比されているのは生きる権利ではなく、権利を喪失したと見なされる生、すなわち、ただの生、低次元の生、生き延びるに値しない生である。だから、死ぬ権利の行使を主張することは、必ずや、そんな生を死へと廃棄することを含意する。他方、死ぬ自由に対比されるのは、生きる自由なのではなく、自由を喪失した生を生かされる不自由である。だから、死ぬ自由を主張することは、不自由な生を死へと廃棄することを含意する。
結局のところ、死ぬ権利や死ぬ自由を言い立てる人びとは、権利も自由も無い状態と見なされる生を侮蔑し拒絶し廃棄することによって、おのれの権利と自由を証し示すのである。要するに、死の権利と死の自由は、ある種の生に死を与える犠牲の構造の一齣なのである。死の権利と死の自由は、フーコーの晴朗な生存か自殺かの選択とは明確に区別されなければならない。
死に淫する哲学は、生と死を反対のものに仕立てる。より精確には、実のところは、低次元の生と高次元の生を区別して反対のものに仕立てておいて、死の権利や死の自由の行使を高次元の生に仕立て上げる。高次元の生とは、伝統的には彼岸での生のことだが、現代においては善き死なるものを死ぬその生死の瞬間的境界のことである。死に淫する哲学は、生きるか死ぬかという選択肢を、低次元の生か高次元の生=死かという選択肢に変形しているのである(pp.152-154)。
こうして、「死に淫する哲学」を駁するのは、そこにおいて「低次元の生」として貶められた「病人の生」を「肯定して擁護する」(p.154)ためである。或いは、「肉体的な生存の次元肯定して擁護する」(p.10)ためである。著者によって、「死に淫する哲学」と見做されるのは、ソクラテスハイデッガーレヴィナス。逆に「病人の生を肯定し擁護」する哲学と見做されるのは、プラトンデリダパスカル、マルセル、ジャン=リュック・ナンシーフーコー(ibid.)。
ではどのように「病人の生」を肯定するのか。著者は「動物実験」について以下のように述べる;

例えばヒト型モデル動物を使用する実験を考えてみよう。正しく実行されているなら、その動物実験で肝要なのは、動物が死ぬことではなく、動物が人間の病気に罹って死へ向かうことである。人間の生のためになるのは、動物が死ぬことではなく、動物が死へと向かいながらも生き延びることである。だから、動物の側から見るなら、死に意味が与えられるのではなく、末期の生に意味が与えられていることになる(pp.105-106)。
また、最後の章でフーコーの『臨床医学の誕生』を踏まえながら、

死の瞬間はない。死は境界ではない。生の終わりは瞬間でも境界でもない。同様に、生の始まりは、瞬間でも境界でもない。起こっていることは、生と死の浸透、生への死の分散、死への生の分散である。これが末期の生の実情である。だから、病人の生を肯定し擁護することは、生そのものの肯定と擁護に繋がるのである(p.218)。
という。さらに、「肉体の生理的システムは数知れぬ生体高分子が織り成す極めて複雑なシステム」でり、「どこを操作すれば安定性が崩れ、どこを操作すれば安定性が回復するか、予想不可能な仕方で変動するシステムである」(p.223)とし、現代医学では「さまざまな検査が、多種多様な徴候を製造して」おり、「ゲノム解析等によって検査にかかる遺伝子変異は、易罹患性等の徴候として使用されていくだろう」こと、「さまざまな遺伝子やさまざまな生体高分子の生理的機能を分析することによって、遺伝子の個体的変異は将来の生の有り様の徴候として使用されていくだろう」こと(pp.225-226)を踏まえて、

犠牲の哲学は、死を代理不可能とするにしても、任意の死を任意の生と交換できると見なしている。プラトンが書き遺したソクラテスにしても、ハイデッガーにしても、レヴィナスにしても、結局のところは、すべての人間は死ぬという極めつけの抽象的普遍性を鵜呑みにしているだけなのである。もちろん、死は、普遍的に平等主義的に、すべての人間にやって来る。しかし、その到来の仕方は多様である。重要なのは、そこから末期の生の多様性が知られてくるということなのだ。むしろ、すべての人間は、死においてではなく、個体の末期の生において代理不可能なのである(pp.226-227)。
これは正しいのかも知れない。しかし、「死に淫する哲学」はふっきられているのか。著者も「現代は、死という契機を通過しなければ生に辿り着けない時代なのかもしれない」(p.227)と述べている。ここでも死は生の意味、生の多様性を照らし出す特権的な出来事とされている。これは著者による病気の定義と関係しているかも知れない。著者は病気とは「生体の状態から死体の状態への移行」であるという(p.167)。これも(特に長期的な視野においては)正しいのだろう。しかし、病気について、病気という実存の在り方について、別様に考えることも可能だ。著者は、「死に淫する哲学」と対決するためか、致死の病気(それもその「末期」)を集中的に採り上げている。しかし、幸か不幸か、私たちはそのような病気に罹ることは一生のうち何度もない。私たちにとってもっと身近な病気とは風邪であったり食中たりであったりする。つまり、身体の様子がいつもと違う、いつもと違って身体が上手く作動しないという気分。或いは、アトピー性皮膚炎とか神経性胃炎というふうに、そのような違和感が常態化・日常化すること。こうした病気を主題化すれば、別様の「病いの哲学」が描かれる筈なのだ。さらにいえば、そうした「病いの哲学」は病気/健康という区別の手前にある私たちの生それ自体を照らし出す筈である。
ところで、第1章でモーリス・ブランショから「プラトンを付けくわえたソクラテス」という言葉が引かれている(pp.55-56)。何故か、ピンク・フロイドの「翼の生えた豚(Pigs on Wing)」*1という言葉を思い出す。根拠なし。