『電車道』

電車道 (新潮文庫)

電車道 (新潮文庫)

磯崎憲一郎の『電車道*1を先日読了。
「洞窟」で始まって「洞窟」で終わるこの小説(p.7、p.267)がどんな本なのか、取り敢えずは裏表紙にある紹介文を引用しておく;


ある男は家族を捨て洞窟に棲み付き、やがて小さな塾を始める。またあるお琴は選挙に落選し、雑木林を飛ぶムササビの幻影と恋の傷を抱えたまま、電鉄会社を興す。ふたつの破格の人生が交錯する高台の町を、大震災、敗戦、高度成長と、電車は何代もの人生を乗せて絶え間なく通い、町と世界を変容させる。東京近郊の私鉄沿線の百年の変転に、この国と私たちの人生の姿が立ち現れる魅惑の物語。
まあこれだけ読んでも、実際にこの本を読んでなければ、わけは60%くらいわからないだろう。この小説の特徴は、保坂和志氏も述べているように「あらすじにしたときの脈絡のなさ」(「解説」、p.274)或いはとりとめのなさだともいえる。保坂氏は「この小説は鉄道の歴史を背景にしつつ語っているのは、崖の男と電鉄の男という二人の、英雄的といえばいえる強引の生き方をした男が生涯何に屈しなかったか、だ」(ibid.)、それは「社会が人々を縛り付け、抑圧している力に対してだ」という(p.275)。しかし、「著者はそれを作品の主題として書いていない」ともいう(ibid.)。だから、この小説を日本近代史・現代史に対するコメンタリー*2として読むわけにはいかない。そのように読もうとしたら直ぐに余計な要素が入り込んでしまう。また、「ふたつの破格の人生」が終わっても、物語というか『電車道』は続いているのだった。
私は読んでいる最中、この小説を語っているのは誰なのかということが気になっていた。この小説は基本的には、主要な登場人物、つまり「崖の男」、「電鉄の男」、「電鉄の男」の娘(隠し子)、「電鉄の男」の孫(隠し子の息子)の視点で語られる。或いは歴史家の視点。日本近代史・現代史に対するコメンタリーだと誤解したくなるのは、この歴史家の視点が多用されているからだろう。この歴史家の視点は客観的な事実の叙述に留まることはない。例えば、「電車が急ブレーキをかけると車輪とレールがこすれ、鉄を軋ませる、耳を塞がずにいられない甲高い悲鳴が鳴り響いた、紛れもなくそれも近代以前には存在しなかった騒音には違いなかった」(p.46)という場合の、「近代以前には存在しなかった騒音には違いなかった」と推論・判断する主体は誰なのか。また、小説の結末近く、「崖の男」の孫が結婚を申し込む場面;

(前略)電車はふだんに比べると空いていた、とても穏やかな気持ちになって、ドアの脇の手すりに寄り掛かって、彼は外の景色を眺めていた、葉を茂らせた街路樹やマンションのベランダに干された洗濯物が、青みの強い夏の光に包まれていた。電車が停車しドアが開くと、そこには白い半袖のブラウスに黒いベルト、グレーのスカートの彼女が一人で立っていた。彼の側に驚きはなかった。このときを逃すわけには行かない、それはもう何年も前から決めていたことだ、しかし話しかける言葉の選択には若干の躊躇が混ざった。「とうとつに申し訳ないのだが、僕と結婚して貰えないだろうか?」二人はホームの上で、胸と胸が触れ合わんばかりに近づいていた。彼女は優しく微笑みながら答えた。「とてもありがたいのだけど……だけどいきなり結婚というのは無理ね」しかしけっきょくそれから八か月後に、二人は結婚した。夫婦の間に子供は生まれなかった。電鉄会社の社長と正妻の間に生まれた二人の息子は戦死ししていたので、この家系はここで途絶えることが分かっていた。(pp.258-259)
語り手として設定されているのは、登場人物たちが死に絶えた遥か未来から、或いは時空を超えた場所から語っている主体である所謂〈神の視点〉。まあ〈神の視点〉というのは現在でも通俗的な小説や映画では用いられており、またそもそも私たち自身が無自覚的に使って、主観抜きというか脱パースペクティヴ化された客観的事実(擬き)を製造してしまったりしているわけだ。但し、『電車道』の語り手たる〈神〉は〈神〉というには仕事がちょっと粗い感じもする。保坂和志氏は「第二節の「電車がきまっせぇ。あぶのおっせぇ」と言いながら電車の前を走る〈告知人〉が本当にあった話なのだと著者・磯崎憲一郎*3本人の口から聞かされ驚いた」と述べている(p.269)。たしかにそうなのだが、実のところこの京都を舞台にした「第二節」というのは*4この小説の中でも浮いた存在になっている。「崖の男」も「電鉄の男」も登場しないし、「第二節」に登場した人たちがそれ以降で登場することは、通行人のような端役であっても全くない。私はこの節の主人公ともいえる「通知人」=「丁稚」が何時になったら再登場するのかとやきもきしながら期待し、遂に登場しなかったことに些か失望してはいるのだだった(笑)。ところで、小説の後半では、「電鉄の男」の「隠し子」とその息子(「電鉄の男」の孫)の存在が競り上がってくる。戦争中のエピソードとして警察権力に飼い犬の「供出」を強制され、犬とともに家出する少女が描かれている(p.123ff.)。この少女が「電鉄の男」の「隠し子」だと明らかにされるのはさらに後の「電鉄の男」の葬式の場面である(p.186ff.)。しかし、彼女が生まれた事情、「電鉄の男」が「隠し子」を作った経緯については語られることがない。こういった欠落というのは、普通なら物語の構成のミスということになるのだろう。ただ、ここでの関心から言えば、このミスによって、〈神〉といえどもその目が節穴としてしか機能しない場合もあることが示されているということになる。そこで、改めて、そういう〈神〉って誰? ということになる。つまらない結論かも知れないけれど、それは、虚であれ実であれ、或いは虚を語っているのか実を語っているのかも自覚もなく、物を語りたがる私たち自身の謂だということになる。

*1:Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20171212/1513047582

*2:鉄道史、地域社会史、教育史、映画史等々。

*3:「大」ではなく「立」のサキは表示されないようなので、普通の「崎」を使ってしまう。

*4:実は、この小説では「節」番号は振られていない。