「福祉にお世話になる人の性として、ろくなものに使わない」?

http://moderate.cocolog-nifty.com/hodoyoi/2006/12/post_476b.html


http://d.hatena.ne.jp/dennouprion/20061223#1166866816に対する反論で、その言っていることの多くは理に適っているのだが、


 現金ばら捲き福祉が悪いのは、だいたい福祉にお世話になる人の性として、ろくなものに使わないからである。
 それに、最低限の教育をあらゆる形でしておけば、福祉のお世話になる人を減らすことができる。要介護になってしまう可能性の高い脳卒中などは、生活習慣や食生活の改善でかなり予防できる。このような本は公立図書館で大量に用意している。公立図書館としても、なる前からそういう本を読むようにプロモートすることが必要だろう。
という言い方はどうかと思う。また、「貧乏人は現金をあげると、酒かギャンブル、ゲームなどに使ってしまう」とも。
あなたは全ての「貧乏人」を知っているわけでもないのに、何故「貧乏人」一般を主語にしてこういうことが言えるのかと批判することもできよう。しかし、「福祉にお世話になる人の性として」という言葉遣いをしているということは、この人は本質主義者であり、「貧乏人」とか「福祉にお世話になる人」の本質を直観してしまっているのだろうか。それとも、世間一般に出回っているだろう言い回しをただ何となく流用しただけなのだろうか。この人にとって、「貧乏人」云々とか「福祉にお世話になる人」云々というのは諺と同じように機能しているということなのだろうか。こういう言い回しが現実の「貧乏人」や「福祉にお世話になる人」のスティグマ化に寄与することは言うまでもない。というよりも、既に(それもdefacementするまで)スティグマ化されているからこそ、こうした流用が可能になるのかも知れないし、同時にスティグマの維持はこうした日々の流用によって支えられているといえるのかも知れない。勿論、「貧乏人」云々ということだけが問題であるわけでなく、これが金持ち云々ということでも問題ではある。
ところで、その反論の相手というのも、読んだ限りでは、相当のネオリベ野郎だと思ったのだけれど、それに対して「役に立つ」云々ということをもって「図書館の公共性」を擁護するというのは、そもそも相手の土俵に引きずり込まれてしまっているのではないかとも思う*1。図書館が「役に立つ」ということは否定されるべきではないが、それを基準にしてしまうと、直接の「役に立つ」とは関係がない人文書とか文学書の居場所はどうなってしまうのかとも思う。公共図書館の意義のひとつには、公共的討議のインフラストラクチャーということがある。特にローカルな問題に関しては、住民投票になったりとか選挙の争点になったりするわけだが、それに対して個人個人がどんな立場を取るにせよ、判断のための材料というか情報を図書館が提供するというのは重要なサーヴィスなのではないか。また、これと関係するかも知れないが、より一般的なこととして、思想空間の多様性の維持というか思考の拡大への寄与ということもある。自腹を切って本を買うという場合、自分の趣味とか政治的スタンスに偏ってしまうことが多いように思うのだけど、どうだろうか。本を買う金は限られているし、そうなると、『美しい国へ』なんかは買う気にはならない。しかし、右にせよ左にせよ、〈敵〉の言動を知らなければ批判もできないし、公共的な討論も活性化しない。図書館に行けば、右翼だって『世界』や『週刊金曜日』を読めるし、左翼だって『正論』とか『諸君』を読める。
ところで、私の知る限り、公共図書館で感じるのは、例えば大学図書館などと比べて、閲覧するスペースがせせこましいということだ。それから、図書館にカフェやレストランやバーが併設されているところというのはあるのだろうか。狭くてうるさい閲覧スペースではなくて、お洒落なカフェでゆったりと本を読みたいという人も多い筈だ。カフェやレストランやバーを併設すれば、図書館は収益も上げることになる。勿論、この場合は「民間委託」した方がいいけれど。

*1:「貧乏人」云々ということを考え合わせると、愚民どもを啓蒙してあげるという義務感が強いのかも知れない。