本音/建前?

http://d.hatena.ne.jp/nisemono_san/20061225/1167121719



まず最初に、《ホンネ》と《タテマエ》は決して別けられているモノではない。このように最初に別けられていない状態を私達は《ココロ》と指そう。《ホンネ》と《タテマエ》と述べる場合、素朴な用法としては、《タテマエ》を、私達は社会的関係性において自動的に決定される言説のことを指す。どういうことかといえば、社会的正義を論じる場合、私達は決してそれを《ホンネ》の部分から信じているわけではない。それらは、「そのことを言わなければデメリット、マイナスが存在している」ということを条件としている。また、「そのことを言うことによって、何かしらのメリットが発生する」ということも同時に行われるだろう。従って、《ココロ》の中でも、外側に表出されるべきものと、内側において留まるべきものの二分化が行われる。このような切断行為が《内省》において行われる。

だからといって、「ホンネ」が即《ホンネ》ということになるわけではない。というのも、我々には次のような難問が立ちはだかるからである。果たして、私達が「ホンネ」という場合において、何を「ホンネ」とするのか。その承認はいったいどこからくるのか、という問題である。私達において、「ホンネ」は常に《タテマエ》化している。例えば、飲み屋の席において、「腹を割って話そう」という場合の、その「ハラ」というのは、多くの場合「上司の悪口」であり、あるいは「だれだれの女性が好きだ」ということを前提条件にしたりする。《ホンネ》が「今の上司をそれほど悪く思わない」だったとしても、「ホンネ」の層では、それは《ホンネ》として形成されてはいない。例えば、2chにおいてでも、そのレスが偽悪ぶっているように見えるのは、それが《ホンネ》ではなく、「ホンネ」だからである。また、学校において、読書感想文を書く場合においても、このような権力構造は生まれている。
「社会的関係性において自動的に決定される言説」ということだけど、取り敢えずは社会的な役割期待において役割演技の一環として、即ち明示的・暗示的に喋ることが期待されている言動、より端的に言えば〈決まり文句〉のことを建前といっていいように思う。とすれば、二番目に引用したパッセージで言われている「ホンネ」というのも、特定の状況において期待されている言動である限り、建前である。その意味で、「私達において、「ホンネ」は常に《タテマエ》化している」というのは正しいだろう。ここで問題なのは、「社会的構築」といった言葉がふんだんに使われていながら、「内省装置」を初めとして、発話者(の意思)への言及に終始しているということだろうか。或る言説を社会的事実としての建前/本音として存立させるのは、発話者の「内省」などではない。そもそも私が特定の仕方で特定の内容を発話することを期待するのは先ず私ではなく(私の発話を聴く/聴く可能性のある)他者であるように、私の発話を建前/本音として存立させるのは特定/不特定の他者による理解(解釈)なのである。そこにおいてこそ、社会的事実が(ときには私の意思に反して)存立する。
引用を続ける;

とするならば、私達は「ホンネ」もまた社会的構築として存在しているとしかいいようがない。というより、「ホンネ」を「ホンネ」としてたらしめてしまうような《内省装置》が存在しているのであり、その参照項は社会的関係項になる。「ホンネ」から逸脱した《ホンネ》は決して「ホンネ」として現れることは無い。未分化されている《ココロ》は、《内省装置》が働くからといって、《ホンネ》と《タテマエ》として現れるわけではない。逆に社会的構築として、つまり「これがホンネである」と認定されることによって、あるいは「これがタテマエである」ということによって構成される。そこで、本来であるならば、その《内省装置》は「ホンネ」/「タテマエ」を突き崩しながら、もっと、根源的な闇として《ホンネ》/《タテマエ》の世界へと分け入る必要がある。
建前/本音が他者によって決定される以上、発話者である私がこれは本音だよと自ら宣してしまうことは或る意味では越権である。また、それは別の(きわめて悲惨な)危険を招来してしまう。私たちの発話、或いはその出所だとされる心が建前/本音という重層性*1を帯びていると思われているということはどういうことなのか。本音とされるものが顕在化した途端、それはもっと裏(奥)があるんじゃねぇかという〈不信〉を喚起してしまう。誠実が一瞬にして不誠実になってしまう。或いは「根源的な闇」に対する暴力。そのようなリスクがありながら、何故本音を語ろうとするのか。それは或る種の〈権力〉*2が作動しているからだと思う。素直に思いのままを語れという命令。「《ホンネ》/「ホンネ」の差を、分断するという諦めではなく、それらの差異を統合するための《闘争》としての回路へとつなげることができるのか、あるいは《連帯》できるのか」というのは、明らかにそのような権力に促されたものだ。しかし、そのような命令−服従がなされればなされる程、世界には〈嘘〉が充ち溢れ、私たちは不信のスパイラルに陥入してしまう。これに関しては、唐突かも知れないが、ハンナおばさんのOn Revolutionを読むことをお薦めする。
On Revolution (Classic, 20th-Century, Penguin)

On Revolution (Classic, 20th-Century, Penguin)

さて、「常に《タテマエ》化している」「ホンネ」を逸脱する発話が発せられる可能性はないといいたいわけではない。そんなものは常に可能なのだ。しかし、それは所謂建前/本音とは次元を異にするだろう。それは発話の内容よりも発話の仕方において、しかもその失敗において、少し具体的に言えば、口ごもりとか吃りとか声の上擦り等々において現れる。それはここで言われるような「内省装置」によって発動されるものではないだろう。というか、その「内省装置」の作動を解除するような仕方で「内省」が働く必要はあるかも知れないが。

*1:これは表層/深層と言い換えることもできよう。

*2:フーコー的な意味での権力。或いは〈自己開発セミナー〉的権力?