道具と装置など

承前*1

http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20101123/1290526669


先ず、「道具主義」的な国家観と「装置」云々とは取り敢えず切り離すべきだろう。詳しく例証することはできないのだけれど、「道具主義」的な国家観は、19世紀の知識人の間では、自由主義者社会主義者を問わず、広く共有されていたといえるだろう。自由主義者夜警国家にせよ、支配階級の道具云々という社会主義者の国家観にせよ、「道具主義」的であることには変わらない。たしか今村仁司*2が、レーニンはやはり19世紀的知識人で、だからその他の自由主義者社会主義者とともに〈国家〉ということについて少々甘く見ていた、だから〈国家〉の重要さに気づいていた20世紀人のスターリンなんかに革命を乗っ取られることになった云々と昔語っていたような気がする。国家観が複雑になるのは、やはり20世紀になって、国家が〈福祉国家〉という様相を呈するようになってからのことだろう。
「装置」について。その前に、「暴力」を前面に押し出した国家論といえば、やはりホッブスに遡らなければならないのではないか。「装置」論だけど、これについては第二次世界大戦後の(特に米国における)社会科学理論の変革に注目しなければならないだろう。ここでの鍵言葉はシステム論。つまり、マクロ社会を、サイバネティックなシステムとして、各サブシステム間の入力/出力の連鎖として統一的に記述する途が拓けたということだ。これは社会学においては、タルコット・パーソンズ流の構造機能分析(structural-functional analysis)を典型とする。少し以前に小室直樹の死に触れてちょこっと仄めかしたことでもあるが*3、私が大学に入った1970年代の末期というのは「理論社会学における構造機能分析の覇権の頂点」がまだ続いており、社会学の理論といえば構造機能分析しかなかった。この当時は、ギデンズもブルデューも日本ではまだブレイクしていなかったのだ。ここでいう機能(function)は函数でもある。因みに、「装置」ということでイメージするのは、「まるで機械のような操作性」ということよりも、〈函数〉性ということだろう。つまり、何かを入力すると、よくわからないけど機械の中で何か操作・加工が行われて、何かが出力されてくる。
ところで、仙谷由人って「フロント」だったのか。「フロント」には知人がいたこともあって、かなり好印象を持っていた党派ではあった。因みに、新宿高校時代の坂本龍一が所属していたのもここ。さて、「フロント」であれば、単純な「道具主義」的、或いは「暴力装置」一本の国家観は持っていなかったと思うよ。上掲のエントリーでは、プーランツァスやジェソップが挙げられているのだが、ここでは言及されていないアルチュセールも含めて、その先行者或いは前提として、アントニオ・グラムシがいる。「フロント」は所謂「構造改革派」の系譜に属する。以前「構造改革派」に言及したときには言いそびれてしまったのだが*4、「構造改革派」を他の左翼的潮流から区別する指標として、グラムシの影響を挙げることができるだろう。そもそも「構造改革」という言葉自体、伊太利共産党に由来するものであるし。


http://d.hatena.ne.jp/dongfang99/20101119


ウェーバーが「国家を官僚制から理解した」とあるけれど、これはどうか。ウェーバーの政治論の柱は「支配(Herrschaft)」だろう。『社会学の基礎概念』に曰く、


権力(Macht)は、社会関係のなかで抵抗に逆らっても自己の意志を貫徹するおのおののチャンス――このチャンスが何にもとづこうとも――を意味する。
支配(Herrschaft)とは、一定の内容をもつ命令に所与の人々が服従するチャンスのことをいうべきである。規律(Disziplin)とは、習熟した定位によって所与の多くの人々が迅速に、自動的に、かつ方式的に命令に服従するチャンスのことをいうべきである。(p.90)
「支配」(の正当化)のヴァリエーションとして、伝統的支配、カリスマ支配、合法的支配(官僚制)があるわけで、逆に言えば官僚制というのは支配様式のひとつにすぎない。
また、「ウェーバーは軍隊や警察といった「暴力装置」については、ほとんど何も論じていない」というのは正しい。ただ、それは「暴力装置」を認めていなかったからでは全然なくて、ウェーバー社会学の基本が〈行為論〉だったからである。例えば、

(前略)法律用語と日常用語とによれば、「国家」は法律概念を示すとともに、法規がそれに適用されるべき社会的行為の例の事態を示している。ところで、社会学にとっては「国家」という事態は、かならずしも法律的に問題となる成素からだけ、あるいはただちにそれから成り立っているのではない。しかも、社会学にとっては、いずれの場合でも、「行為する」集合人格というものはまったくない。社会学が「国家」とか「国民」とか「株式会社」とか「家族」とか「軍隊」とか、あるいはそれに似た「形象」について語るとき、それらでもってむしろ、事実的にまたは可能的なものとして構成された個々人の社会的行為について、ただその或る種の経過を意味するだけである。(pp.22-23)
社会学の基礎概念 (1953年) (角川文庫〈第609〉)

社会学の基礎概念 (1953年) (角川文庫〈第609〉)

ところで、アレントウェーバーの政治論を殆ど認めていないが、上に引用した「権力」の定義からしてNGだろう。彼女からすれば、こんなの権力じゃない、ただの暴力じゃん。