「われわれ」

http://d.hatena.ne.jp/sean97/20080829/p1


私も学術論文における「われわれ」という主語(特に廣松渉先生のそれとか)が気になって、あまり意味も考えずにかっこいいぞ! というノリで自ら使ったこともあったが、あるとき学術論文に一人称は使うもんじゃないと思って、「筆者(the writer)」とか「報告者(the reporter)」という三人称で自分のことを言及するようになり、今に至っている。
学術論文における「われわれ」の意味について、(DeSean先生とは違った角度から)いい加減に考えてみる。
先ず、論文を通じて著者と読者との間でコンセンサスが達成されるという前提がある。勿論、ヴァーチャル対話にすぎないので、実際には著者が一方的に説得しているだけであるが。「われわれ」というのは著者と読者との間で達成される(とされている)コンセンサスを確認するという機能を果たしている。ちょうど、教師が授業の要所要所でみなさん、ここまでわかりましたね、何か質問ない? と発話して、生徒がわかっているかどうかを確認することと似ている。この発話によって、ある知識は教師が独占している知識(一人称単数の知識)から教室のみんなによって共有された知識にと変わる。つまり、或る事柄に関して、コンセンサスが成立するわけだ。因みに、多くの場合、この何か質問ない?というのはたんなる儀礼であって、ここではい、どこそこがわかりませんとかベタに質問する生徒がいれば、〈空気の読めない奴〉ということで後ろ指を指されることがありうるが、その罪状は〈わからない〉ことというよりは「われわれ」の構築を妨げたことにあるということになるだろう。
ところで、私は「私たち」という言葉を使うが、これは通常〈人間学的私たち〉、つまり人間一般を指しているつもりだ。「私」は書いている本人のことを指す場合と、〈現象学的私〉、つまり意識主体一般を指す場合。昔、中村雄二郎先生(『哲学の現在』)が、2つの「われわれ」、つまり私の身内集団としての「われわれ」と(一人称、二人称、三人称を包括した)人類全体としての「われわれ」についての考察を行っていたように思うので、マークしておく。

哲学の現在―生きること考えること (岩波新書)

哲学の現在―生きること考えること (岩波新書)

さて、上の何か質問ない?だが、英語の疑問文では、イントネーションを上げる場合と下げる場合がある。授業で教師が儀礼的にいう場合の


Do you have any questions?


はイントネーションを下げて発話する。また、コンセンサスの確認ということで、日本語において重要なのは終助詞の「ね」だろう(Cf. フランス・ドルヌ+小林康夫『日本語の森を歩いて』、p.204*1)。

日本語の森を歩いて (講談社現代新書)

日本語の森を歩いて (講談社現代新書)

*1:この本については、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060102/1136214715でも言及した。