http://blog.goo.ne.jp/funamushi2/e/58d690dcf02e90a53f5a15310a81f6c2を巡る一連の騒動に関して、世界観の準位においては、〈農民社会(peasant society)〉に戻ってしまったのかと思った。
米国の文化人類学者George M. Foster*1は農民社会の世界観として、「限定された良きものというイメージ(image of limited good)」を提出した。農民社会は相対的に閉じており、そこでは「良きもの(good)」は限定されている。限定されているのは(goodsではなくgoodと記したが)物質的な資源だけでなく、幸福、愛情、友情等々の非物質的な「良きもの」もである。従って、そこでは他人のゲインは私のロスというゼロ・サム・ゲームが(少なくとも主観的には)行われることになる。また、社会関係を調整する情動は「妬み(envy)」である。詳しくは、Fosterの
“Peasant society and the image of limited good” American Anthropologist 67, 1965, pp. 293- 315
“The Anatomy of Envy: A Study in Symbolic Behavior” Current Anthropology13, 1972, pp. 165-202
をご覧いただきたい。Fosterは墨西哥を中心としたラテン・アメリカ社会の観察をベースに立論しているが、農民社会という概念は例えば日本のムラ社会にも適用可能であり、「限定された良きもの」は、例えば小松和彦などによって、日本の〈憑きもの信仰〉の説明にも使われている(cf. eg. 『憑霊信仰論』)。
- 作者: 小松和彦
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1994/03/04
- メディア: 文庫
- 購入: 1人 クリック: 15回
- この商品を含むブログ (45件) を見る
近代資本主義社会においては、物質的資源の有限性をエポケーすることによって、経済成長もまた革命も考えられていた。ところが、1970年頃からその前提たる資源の無限性の信憑性に翳りが見えてきたことは周知の通りである。Unlimited goodsからlimited goodsへ。それに伴って、非物質的なgoodもまたlimitedになってしまったのか。
なお、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071102/1193971451にも関係するか。
追記。「承認は分配できるか(財のように)」*2は、タイトルからこの「限定された良きもの」問題を扱っているのかと一瞬想像したが、そうではなかった。ただ、
という指摘は興味深い。
承認の問題は、分配の問題のように扱えるだろうか?それは無理だ。すべての人が、少なくとも一人の人から承認されうるということ、そういうことは保障できない。誰からも承認されない孤独な人生はありうる。承認とは、承認しないこともできる人が承認するからこそ価値がある。分配は強制できるが、承認は強制できない。強制すると、意味がない。「財の」分配という問題は立てられるが、「承認の」分配という問題は立てられない。