表現は表現

http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20090610/p1


「女性を陵辱して言うなりにすることを目的とするゲームへの規制」問題についての議論が盛り上がっているようだ。件の類の「ゲーム」を直接見たことがないので、その件については云々しない。問題にしたいのは「表現」一般。幾つか意見を読んで奇妙に思ったのは、(広い意味での)功利主義が議論を支配しているということ。「規制」に対するスタンスはどうあれ、問題になっているのは、社会または個人にとって害があるのか益があるのか、ということ。しかし、「表現」に対する態度としてそれははたして妥当なのだろうか。


どんな主義・主張であれ、自らの正当性を社会に対して申し述べる機会があるべきである。「言論の自由」とはそのためのものである。だから、陵辱ゲームの愛好家・擁護者は、「表現の自由」を正しく行使せよ。それはつまり、「陵辱ゲーム」のような表現が、今もなお存在する圧倒的な性差別構造を解体するためにいかに有用であるか、ということを説明せよ、ということだ。

 それをしない、できない、ということは、陵辱ゲームは一目で了解する限りの意味以上のものを含まないと、愛好家・擁護者たちが認めている、ということだ。それは性差別そのものの表現であり、それ以上のなんらの意味を含まないということを、愛好家・擁護者たちが認めている、ということだ。愛好家・擁護者がこの程度である限りは、こんなものは規制さるべし。

 さらに言えば、一度規制を受けたら終わり、というわけではない。規制を受けた上で、改めて陵辱ゲームが私たちの社会に対して持っている「良き意味」について真剣に考え抜いて、それを社会に向かって主張すればいい。それが成し遂げられれば、陵辱ゲームならびにその愛好家に対する差別と偏見を私たちは詫び、再び陵辱ゲームを作り愛好する自由を認めるだろう。

「私たちの社会に対して持っている「良き意味」」を持ち出して、自らを正当化するような「表現」に「表現」としての価値はないだろう。「表現」が「表現」として価値を持つのはそれが端的に「表現」であるからであり、その価値の高低はせいぜい「表現」のコミュニティにおいてその都度その都度評価される〈洗練〉の度合いによるしかないだろう。文学者としての石原慎太郎は彼の持つ特有な政治的・道徳的スタンスによってではなく、彼のエクリチュールが文学的に洗練されているかどうかで評価されるべきであるということだ。
ともかく、(一般的な言明として)「表現」を社会的な効用に還元する態度には強い疑問符を打たざるをえない。それから、「退廃」*1という言葉を「暴力」と並列的に安易に使わないでほしいとは思う。ファシストやスターリニストは「退廃」というレイベリングを使い、多くの表現を抑圧しただけでなく、「退廃」的な表現者の生命を奪ったのだから。

See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080228/1204212786

*1:正しくは頽廃。