線を引く

この手の話は以前にも言及したような気がする。
『読売』の記事なり;


図書館の本、傷だらけ…「切り抜き」「線引き」横行

 各地の公立図書館で、雑誌などから写真や記事を切り取ったり、専門書に蛍光ペンで線を引いたりするなど、図書を傷つける行為が増加している。


 中には、閲覧室で堂々と雑誌を切り取り、職員から注意されると「どうしていけないの」と反論する人もいる。

 公共の財産を傷つけてはいけないという最低限のルールを破る行為の横行に、図書館側は「社会全体のモラル低下の表れでは」とため息をついている。

 東京都世田谷区の区立中央図書館(同区弦巻)で被害が目立ち始めたのは5年ほど前から。徐々に悪化し、資料係の越後信子係長は「最近では1日2、3件のペースで切り取りや書き込みが見つかる」と話す。

 越後さんには忘れられない“事件”がある。3年ほど前、館内で若い女性が最新号のファッション雑誌からヘアスタイルの写真をカッターで切り抜いていた。驚いて注意すると、女性は悪びれる様子もなく「どうしていけないんですか」と言い放ったという。

 同館で最も多いのは、雑誌から人気アイドルの写真が切り取られるケース。このほか新聞の縮刷版から丸々1ページが引き抜かれたり、論文を掲載した書籍に300ページ以上にわたって線を引かれたりもした。

 同館はやむなく、頻繁に被害にあう雑誌は書棚に置かず、カウンターで貸し出す方式に切り替えた。それでも切り抜きがやまなかったアニメ雑誌は購入を取りやめた。ひどく傷ついた本は買い替えが必要となるが、年間の図書購入費の総枠が決まっているため、新たな図書の購入を減らさざるを得なくなる。

 本を傷つける行為は刑法の器物損壊罪にあたる恐れがある。しかし、「とにかく『罪の意識』が薄い」と越後さんはため息をつく。

 横浜市の市立図書館全18館では、今年6〜9月の間、切り取りや書き込みなどで処分せざるを得なくなった雑誌や本が計921冊に達した。被害額は約147万円。被害は中高年向けでも見られ、同館の担当者は「幅広い年齢でマナーが低下している」と話す。

 千葉県の市川市中央図書館でも、多い時には月に約100冊の被害があった。

 全国の主な図書館が加盟している日本図書館協会(東京)の担当者は「図書が傷つけられる被害は数年前から著しくなった。図書館の側も、本を傷つけないよう呼びかける掲示・展示をしたり、館内の見回りなどを強化したりする必要があるが、職員数などの面から限界もある」と話す。
(2006年12月12日15時34分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20061212i508.htm

以前に言及したときも書いたと思うのだが、「線引き」は昔の方がひどかったのではないかという気がする。その理由は簡単で、昔はコピー代が高かったのだ。私の印象では、コピーのコストが下がるとともに、図書館の本にわざわざ線を引くという輩は減っていった。だから、記事を読んで、今頃何故? とも思ったのだ。もしかして、齋藤孝が3色ボールペンで本に線を引くのを提唱しているのが悪いのかとも思ったけれど、「蛍光ペン」だということだと、取り敢えず齋藤さんには罪がないことになる。私も(勿論自分の本にだけれど)本に線を引く。しかし、ラインマーカーは使わない。本の白くくすんだ地にラインマーカーというのはそれ自体が色の暴力であり、だいいち目がちかちかする。さらに、時間が経って色褪せたラインマーカーというのは情けないほど醜い*1。だから、ラインマーカーというのは短時間で捨てることが前提の試験勉強用の本に使うものであるな。
ところで、1980年代の後半だったと思うけれど、知人が大学院のレポートに使いたいというので、本を貸したことがあった。戻ってきたら吃驚! 醜いラインマーカーの痕跡! それ以来、他人に本を貸すということはしなくなった。貸すとしても、30分以内にコピーを取れという感じだ。因みに私の本をラインマーカーで汚した男は現在九州の片田舎で大学教師をしている。図書館の本にマーカーで線を引いたりひっちゃぶいたりする人というのは、友人とか先生から本を借りても平気でそういうことをするのだろうか。
ところで、アンダーラインを引くという所作について、http://d.hatena.ne.jp/tsukimori/20061209/p2ような意見もある。印刷物ではあっても書物は書誌学的に言えば一冊一冊が独特の価値を持つと言われるが、それはそれぞれに所有者=読者によって引かれた線や書き込みによるものだろう。たしかに、著者手沢本を参照することはテキスト・クリティックには不可欠だろうし、例えば廣松渉先生が『資本論』のどういう部分に線を引いたのかというのはそれ自体で思想史的な価値を持っているといえる。本に線を引くというのは、本をカスタマイズすることであり、もしかしたら読者による本の書き直しといえるかも知れない。ただ、図書館の本ということだと、話は違う。本をカスタマイズしたとしても、それはすぐに匿名性の海に沈んでしまう。極端な話をすれば、(ポルノグラフィをコレクションしている図書館があるのかどうかは知らないけれど)、図書館で無数の匿名的な精液に塗れたエロ本を借りて読むという事態を想像されたい。

耳をすませば」の原作コミックで、読書好きな主人公の月島雫が、図書館で借りた本の裏背表紙に貼り付けられた貸し出しカードに、「天沢聖司」という名前がいくつも記入されているのに気がつきます。そういうエピソードがありましたよね。

今となっては懐かしい裏背表紙に挟み込まれたカードは、その本が誰に読まれたか、どれくらいの人に読まれたか、そういうぬくもりとか過去とか、データに収まりきらない重いものが感じられて、その本自体の歴史書みたいなものだなと僕は思います。たった名前と日付しか書かれていないけれど、名前というものはその人のことを何よりも雄弁に語ります。「織田信長」や「西郷隆盛」と書かれていれば、それはもう十分すぎるほどの歴史を紡ぎ出すことでしょう。また、字というものもその人の個性を如実に語るものです。

それが、近年(いつかは知らないけれど)カード管理制からデータ管理制に移行していった。そこらへんの寂しさは「耳をすませば」の映画版や、「To Heart 2」の愛佳シナリオで描かれていたような気がします。効率を考えればパソコン管理に移行していくのは当然のことだとは思うけれど、効率とは別の観点から、裏背表紙のカードはなくさなくてもよかったのではないかなと個人的には思っていました。記録を残したい人だけ残していけるような、一言メッセージのようなものも一緒に残せるようなカードを挟めたら良いのにと、そう思ったのです。

本には伝えたい・伝えるべき内容があって、伝わっていったという事実を刻んでいくのが、そのカード。それはいわゆる歴史。啓蒙という概念の実施状況をスタンプにして記録しようとしたら、その一番近い形式がこの本の裏背表紙に付いたカードなんだろうと思います。もし読んだ人ごとに色が割り当てられて、その人が重要だと思った箇所に(何箇所までと指定された)アンダーラインを引くことが許されたら、その本は、色の変化という歴史の中で内容を変化させていく、「生きた」本になっていったことでしょう。だって、特定箇所に線が引いてあるかないかで、その本の理解は少し違うものになるからです。伝わっていく内容が歴史の事実の積み重なりによって少しずつ、確実に変わっていくのだとしたら、それは「生きている」ということに他なりませんよね。

汚されていくことが、本を生かしていくことになるんだなんていうと図書館員さんから怒られそうだけれど。僕は今読んでいる本の、一度引かれて一生懸命消しゴムで消されたような、ごく薄い鉛筆のラインと薄くなった活字を見ていると、本のいのち、個性のようなものを感じてしまって、愛着のようなものすら芽生えてしまっているんですね。

「本は生きている」、それを確かに証明するものとしてこの裏背表紙の歴史書は欠かせない存在だと思うし、「ハリーポッター」で出てくるような魔法書が実在するとしたら、それは本が生きてきたという歴史的事実の換喩であるべきです。何百年と生きてきた老木が知性を帯びるように、何百年と生きてきたから本だからこそ、魔法を帯びたとしてもそれは不思議なことではないという幻想が共同化されるのです。

けれど、「本が生きている」ということの事実を実感(手触り)として人々に与える役割としてのカードが、本から取り外され、図書館に収蔵される本に顕著だった個体としての本のありかたが、出版社から販売されている本と同じような群体として人々に認識されるようになった。すると、その歴史はインターネット上の批評や感想というテキストの形を借りて延命しているんだけれども、それは個々人が分散し各々単一・完結化したものでしかないわけで、「あの本読んだ?」「うん読んだ」、このあっけない横のやりとりで途切れてしまう、縦軸を失った歴史はそもそも歴史とは呼べないものです。

思い出したのは、大学時代に図書館のカードに著名な学者の名前があるのを認めて、あの先生と同じ本を借りているのかと何だか感慨深く思ったということ*2
また、

この記事だとファッション雑誌やアニメ雑誌が例に挙げられているが、主婦向け雑誌の弁当特集や資格関連の本なんかもひどい。何十ページもごっそり持っていかれている本(社会人向けの資格試験関連の本だった)を見たことがある。職員が見てないところで切りとって持って行ったんだろうな。そんな泥棒したテキストで勉強するヤツは出世or就職できなくていいよ、と思ったりもする。
http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20061213/p1
というのはたしかに酷い。これが酷いというのは、ひたすらマイナスしかもたらさないからだ。
これは公共精神の問題としても語れるわけで*3、冒頭に引いた記事も「社会全体のモラル低下の表れ」として採り上げているわけだ。公共精神というのは、愛国心が空虚に強調される中で、さらに衰退していくのだろうけれど、有効な対策としては、恥を掻かせるということなのかなとも思う。

*1:但し、コピーした論文にはよくラインマーカーで線を引く。純白に近いコピー用紙にはラインマーカーの蛍光色は映えるのではないかと思っている。

*2:カードに、学生は学生番号を、教員は実名を記入していた。

*3:Cf. http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20061213/p1