http://d.hatena.ne.jp/ululun/20061111/shakai061111
総論としては、納得できる。また、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061107/1162927176で言及したこととも重なる部分がある。しかし、(これを書いた人もいじめられた経験があるということだが)、実際にいじめられて精神的/物質的な損害を被ったと憤っている被害者に向かって、「どんな事があっても、いじめた奴らを殺してはならない」ということは(少なくても私には)できないし、そうすべきではないとも思う。場合によっては、その報復に正当化を提供してもいいと考えている。勿論、「正義」などを振り回すわけではないし、そういうことはあってはならない。報復というのは幾つかの意味において徹底的にプライヴェートなものなので、それに政治的或いは公共的な意味を賦与することはできないし、賦与することも許されないと思う*1。では、如何にして正当化できるかというと、経済学的には正当化できるのではないかと思う。経済なので、公正という意味でのjusticeは介在するかも知れないが、通常の意味での「正義」が介在する余地はない。介在するのは効用と価格の均衡だけである。但し、報復の場合、棄損されてしまった自分の過去にしても、自分の〈名誉〉にしても、〈重要な他者〉の生命にしても、一度失われてしまったら如何様にしてもそれを完全に恢復することは不可能である。ここで、司法、とくに民事司法というのは万物万事が銭に換算できるというフィクションを前提として、且つそれを万人に強制することによって存立しているということを記しておくのは無意味ではあるまい。直接的な報復というのは、或る意味で貨幣以前的な経済に属しているといえるだろうか。話を戻すと、報復の経済においては、通常の商取引のようにwin-win的な均衡に到達することはそもそも不可能である。それができないので、lose-loseの状態で均衡を達成しようとするのが報復である。その新たに加えられたloseの価格が公正なものであり、実際に均衡が達成されているのかどうか、或いは〈ぼったくり〉でないのかどうかは少なくとも当事者間では決定不能だろう。ということで、それはcommonsenseに回付されることになる。勿論、報復を推奨するわけではない。ただ、こうした(なんちゃって)経済学モデルを考えることによって、例えば「自身の中にある「死ね」という気持ち」を嫌悪してしまうこと、無意味且つ有害な罪悪感から逃れることは可能だと思うのだ。
実際、いじめに遭って自殺を考えている人或いは報復を考えている人に対して、どのような言葉がかけられるのかといえば、Drink this cup of coffee and smoke this cigarette.というくらいしか思いつかない。
さて、「ディスコミュニケーション」ということが言及されている。このことは、
ということと関連する。私としては、それは更にある種の理解やコミュニケーションについてのモデルと関係していると思う。送り手の側に或る〈正しい意味〉がアプリオリに存在していて、それを受け手の側がdecodeして〈正しく〉再現することが理解だというロゴサントリックなモデルにおいては、「ディスコミュニケーション」というのは(本来あってはならない)スキャンダル(エラー)にすぎない。そうすると、ここからは送り手と受け手のリテラシーの欠如が責められるか、歪曲された発話状況ではなくて理想的な発話状況をつくり出さなければいけないという議論が出てきてしまう。そうではなくて、そのような理解こそが事故として(accidentally)起きるという前提に立てば、「ディスコミュニケーション」については気が楽になる。また、それは〈他者性〉へのリスペクトということに関連しているとはいえるだろう。
この国におけるいじめ問題の本質は、「協調性」ということがあまりに自明とされていることに尽きる。ある集団の中で、互いに仲良くできない人間がいるのは当然である。本来そこで教えられるべきは、お互いに干渉せず、気持ちよく共同生活を送れるようにするための知恵であるはずだ。しかし、「仲良くするのが当然」という環境では、「仲良くしなさい」と連呼するばかりで何ら有効な対策が打たれないばかりか、いじめ被害を受けている側こそが「非正常な事態を招く原因」として問題視されることになる。
http://d.hatena.ne.jp/Dryad/20061110