白川静

Mixiで知った*1
あと数年で白寿だというのに。
取り敢えず、『朝日』と『読売』の記事をクリップしておく;


中国文学者の白川静さん死去 著書に「漢字」「孔子伝」
2006年11月01日

 漢字研究の第一人者として知られ、文化勲章を受章した中国文学者で立命館大名誉教授の白川静(しらかわ・しずか)さんが10月30日午前3時45分、多臓器不全のため京都市内の病院で死去した。96歳だった。1日に近親者で密葬を営んだ。お別れの会を開く予定だが、日取りは未定。自宅は公表していない。連絡先は立命館大総務課(075・813・8137)。


 1910年、福井市洋服店の次男に生まれた。小学校卒業後、大阪の法律事務所に住み込みで働きながら夜学へ通い、35年、立命館中学教諭に。在職しながら立命館大を卒業、同大学予科を経て81年まで文学部教授を務めた。96年度朝日賞。98年に文化功労者となり、04年に文化勲章を受章した。

 若いころから「詩経」に魅せられ、中国文学の研究を志した。詩経は紀元前9世紀ごろ、民衆が自らの感情を歌った最古の中国古典。正確に理解するため、最初期の漢字である甲骨文字や金属器に刻まれた金文を研究し、その成果が代表的な研究書の「説文新義」「金文通釈」に結実した。

 これらの研究をもとに漢字の字源辞典の「字統」、漢字が日本でどのように読まれてきたのかを分析した「字訓」、そして漢和辞典の「字通」が生まれた。前例のない「字書3部作」。独力で完成させたのは86歳の時だった。

 理事長を務めた文字文化研究所主催の「文字講話」を99年から始め、90歳を過ぎても約2時間の講演を立ったままこなし、漢字の成り立ちや東洋の精神を分かりやすく説いた。

 文明論的な関心も深く、日本の古代民衆の詩的世界、万葉集との比較にも力を注いだ。白川静著作集(全12巻)をはじめ、「漢字」「孔子伝」など多数の著書がある。
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200611010389.html


漢字研究一筋、独自の文明論─白川静氏が死去

 科学的手法で漢字の成り立ちや意味を調べ、「字統」「字訓」「字通」の字書3部作などで知られる中国古典文学者で文化勲章受章者の白川静(しらかわ・しずか)氏が10月30日、死去した。96歳だった。告別式は1日、近親者で済ませた。後日、「お別れの会」が開かれる。


 福井市出身。洋服商の二男に生まれ、小学校卒業後、大阪の法律事務所で住み込みで働きながら夜学に通って20歳で中学を卒業、立命館大専門部(夜間)文学科で勉学を続けた。その後中学教員をしながら同大学法文学部に入学、1954年、同大学教授となった。

 一貫して漢字研究に携わり、中国最古の文字である甲骨文字をはじめ漢字文化圏の古典を丹念に読み解いて独自の文明論、通説への批判精神に満ちた「白川文字学」を樹立した。

 旺盛な研究欲は生涯尽きず、76年に立命館大を定年退職後も特別任用教授として教育研究に従事。70歳で退いてから13年の歳月をかけて計4000ページを超える前人未到の字書3部作を独力で完成させた。

 漢字の形や意味の変遷を系統的にまとめた「字統」(84年)、漢字の訓読みが日本で定着する経緯をたどった「字訓」(87年)に続き、96年、集大成としての漢和辞典「字通」を刊行。孤高の碩学(せきがく)としての地道な研究成果が一般的に知られるようになり、91年に菊池寛賞を受賞、98年、文化功労者となり、2004年に文化勲章を受章した。1981年から立命館大名誉教授。
(2006年11月1日22時20分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20061101it13.htm?from=top


文字を語れば止まらず…「翁」と称さず白川静

 「『生』きるという字はね、草木が生い茂る様子を表しています。もっと茂ると『世』になる。つまり、一代という意味ですな」。


 先月30日に亡くなった中国古典文学者の白川静さん(96)は、ひとたび文字について語り出すと止まらなかった。次から次へと字を分解し、歴史的背景を語り、自らの考証を加え、だれにでも分かりやすく説明した。

 立命館大学卒業は33歳の時。苦学を重ね、たった一人で母校で研究を切り開いてきた。「大学研究室で仕事をするという私の生活習慣を破壊する権利はだれにもない」と、大学紛争の真っ最中も閉鎖されたキャンパスに黙々と通った。

 大学を離れてからは、京都・桂離宮近くの自宅で漢籍と向き合う日々。字書三部作が数々の賞を受け、東京で授賞式に出席する機会が増えても、必ずその日のうちにとんぼ帰りして、翌朝から書斎にこもったという。

 90歳を過ぎ、次の目標を尋ねられれば、「今やりたい仕事を片づけるには、あと20年はかかる。松尾芭蕉は30歳代で『翁』と称したというが、私はこの年でも『翁』と書いたことはありません」と、朗らかな笑い声を響かせた。

 その言葉通り、精力的に活動を続け、94歳の04年10月、中国文字の金文(きんぶん)をテーマにした「新文字講話」(年2回、全4回)を開講。05年には出身地の福井市、さらに京都市の名誉市民になった。
(2006年11月1日22時3分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20061101i515.htm?from=main5

どうでもいいことだが、ハンナおばさんが生まれた4年後には白川先生は生まれていたんだということを思った。それはともかくとして、白川先生は私を中華世界へと誘惑した主なひとりなのだった。