農民的な同調主義、「ファシズム」というよりも

ルイ・ヴィトン」といえば、上海では、今年の春頃、ぱっちもんの「ルイ・ヴィトン」のバッグを抱えて仏蘭西に入国しようとした中国人女性がイミグレーションで入国を拒否されたという都市伝説が流行していた。たしか、仏蘭西領事館が否定のコメントを発したり、上海の旅行会社が海外旅行にはぱっちもんを持っていかないようにという説明会を開いたりということがあったかと思う。
さて、「ルイ・ヴィトン――あるいは資本主義の精神」と題するテクスト;


 今日、世界で見かけるきわめて多くの日本人女性が、ルイ・ヴィトンの鞄を持ち歩いている。といっても、日本人女性が、この鞄を作った一九世紀の家出少年の熱烈なファンというわけでもなければ、あるいは、何人かの外国人が誤解しているような、国家からこの高価な製品の配給を受けている、というわけでもない。たんに、自分の持っている一番高価なバッグだから、彼女たちは持ち歩くのである。もちろん、気に入って買ったという女性はほとんどいない。“ひとつくらいはもっていてもいいかしら”と思って買ったのである。そして、ローマ皇帝ヘリオガバルスが自分の顔に自ら糞便を塗りたくったのとは正反対に、様々な有名メーカーのロゴマークを無意識のうちに身体のどこかに塗りつけている女性たちは、“わたしはそんなブランド嗜好を振りまいて歩くような人間じゃないわ”と思っているのである。

 これが大間違いなのだ。この“ひとつくらいは”というのが罠なのだ。というのも、みんなそう思っているからである。だからこそ、女性の数だけ同じ商品が売れるというような、要するに国家から支給されているのと結果的に大して変わらない、馬鹿げた事態が起こってしまうのだ。そしてこれこそが、洋の東西を問わず、《ファシズム》と呼ばれるものの源泉なのである。その意味では、ルイ・ヴィトンの職人業に熱烈な意志を持つ女性――一心不乱に自己を消し去ろうとする女性たち――の方が、よほど健全なのだ。わたしはむしろそんな女性を愛するとさえ言うだろう。“ひとつくらいは”という表現で自己の疚しい良心に居場所を残しているひとの方が、じつは病的なのである。ファシズムは、こうした消極的な――つまり自身がそれと意識していないような価値の共有にこそ、端を発している。そしてこうした消極的に共有された統一的な価値を、わたしたちは精神と呼ぶ。つまり、女性が持ち歩いているのは、使用価値というよりは空虚を詰め込んだ鞄としての精神なのだ。あのロゴ、膨らんだり縮んだりするあのロゴこそが、彼女たちの気息=精神そのものなのである。ファシストの仕事は、この消極的な精神を、ひとびとにはっきりと自覚させ、むしろ鞄の中を自己で充満させることだ。彼は、良心的な人たちに対しては、これだけしか言わない。「あなたが持ちたいと思っているものを、持てばいいのです。」

 こうした精神の隠然たる侵食作用を克服する方法はひとつしかない。それはすなわち――“積極的に買わない”という作法について、学ぶことである。
http://d.hatena.ne.jp/vir_actuel/20060814

「《ファシズム》と呼ばれるものの源泉」というよりも、寧ろたんに農民的な同調主義なのではないかと思う。或いは閉じられた平等主義指向。昔農村社会学の教科書で読んだところによれば、かつて農村で営業活動を行うセールス・マンにとって、最上のセールス・トークは〈お隣さんも買ってますよ〉だったという。勿論、都市化したとしても、そのマンタリテが消滅するわけではない。それは、他者の〈内心〉を〈読〉んで他者の振る舞いを予期するという、おそらく社会性それ自体を可能にしている能力に根ざしているからである。〈空気嫁〉というのもそういうことなのだろう。だから、「源泉」ではないにしても、「ファシズム」であれなんであれ、一旦確立され〈空気〉の如く化した体制の維持にそれが機能的であるのは想像に難くない。
セールスといえば、昔〈ムショ帰りのパンツの紐売り〉というのがいたそうな。私は出会したことはないし、私より年長の人からも出会したという話を聞いたことはない。
ルイ・ヴィトン」を巡って、数年前に読んだ三田村蕗子『ブランドビジネス』(平凡社新書、2004)
ブランドビジネス (平凡社新書)

ブランドビジネス (平凡社新書)

が面白かったので、取り敢えずここに掲げておく。