「両性具有」(ヴァージニア・ウルフ)

自分ひとりの部屋 (平凡社ライブラリー)

自分ひとりの部屋 (平凡社ライブラリー)

ヴァージニア・ウルフ『自分ひとりの部屋』(片山亜紀訳)*1第6章から。


それから素人っぽくではありますが、、わたしは魂の見取り図を描いてみました。各人の中には、二つの力、すなわち男性の力と女性の力が備わっています。男性の頭脳にあっては男性が女性より優勢で、女性の頭脳にあっては女性が男性より優勢です。通常の安定した状態というのは、両者が調和をなしていて、精神的にも協力し合っている状態です。男性でも、頭脳の女の部分が働いていなくてはなりません。女性も、自分の中の男性と交歓がなくてはならないのです。コールリッジは〈偉大な精神は両性具有である〉と述べて、おそらくこういうことを意味していました。この融合が起きて初めて心は十分に肥沃になり、すべての能力を発揮できます。男の部分しかない精神ではたぶん創造はできず、女の部分しかない精神でも不可能なのです。でも女性であって男らしいとか、女性であっても男らしいというのはどういうことなのか、ここで立ち止まって一、二冊の本を参照したほうが良さそうです。
コールリッジが〈偉大な精神は両性具有である〉と述べたとき、彼は明らかに、女性にとくに同情したがる精神について語っていたわけではありませんでした。女性の掲げる目標を自分のこととして引き受けたり、女性が言おうとしていることを汲み取ろうと努力したりすることではなかったのです。たぶん両性具有の精神は、片方の性別だけの精神と比べると、男女の区別をつけない傾向にあります。コールリッジがたぶん言おうとしていたのはこうです。両性具有の精神は共鳴しやすく多孔質である。何に妨げられることもなく感情を伝達する。無理をしなくても創造的で、白熱していて未分割である。実際、シェイクスピアの精神は両性具有的で、男性であっても女らしい精神の一類型でした――シェイクスピアが女性をどう考えていたかはわからないとしても、です。
一方の性別のことだけを、もう一方の性別と切り離して別々に考えたりしない――それが十分に成熟した精神のしるしというのが本当なら、現代ほどこの状態に到達しにくい時代はありません。(略)わたしたちの時代ほど、執拗なくらい性別を意識させられる時代はありません。(略)間違いなく女性参政権運動のせいです。男性という性別とその特徴について、もし挑戦を受けることなかったら考えもしなかったのに、強調しないわけにはいかなくなったのです。挑戦が黒い婦人帽をかぶった数人の女性たちのみによるものだったとしても、それまで一度も挑戦を受けたことがないのであれば、ひとはやや過剰なくらいに仕返しをするものです。(pp.169-171)
ジョン・ゴールズワージーとラディヤード・キプリングへの批判;

(前略)現在の最高の作家による極上の作品も、全く理解できないのです。それらの作品には永遠の生命の泉があると、いくら批評家が請け合ってくれたところで、女性にはどうしても見つけられません。両氏が男性の美徳を賛美している、男性の価値観を使って男性の世界を描いている、というだけではありません。彼らの本に浸透している感情が、女性には理解不能です。こっちに来る、集まってきた、頭上でいまにも弾けそうだと、結末にいたるはるか前に口にしてしまいます。あの絵は老ジョリオンの頭に落下するだろう、老人はその衝撃で死ぬだろう、彼の遺体を前に、老事務員が二言、三言、お悔やみの言葉を述べるだろう、テムズ川の白鳥という白鳥がいっせいに歌い出すだろう*2。でもそうなる前に、わたしは逃げ出してスグリの木の茂みに隠れてしまいます。男性にとってかくも深遠、かくも繊細、かくも象徴的な感情が、女性には謎だからです。キプリング氏の描く、逃亡する将校たちにしても同じです。〈種蒔きびと(Sowers)〉にしても、〈自分たちだけで軍務(Work)を全うする兵卒たち(Men)〉にしても、〈旗(Flag)〉にしても同じ――こうして大文字で際立たせると、赤面してしまいます。男性だけの乱痴気騒ぎをこっそり立ち聞きしているのを見つかってしまったような心持ちです。ゴールズワージ氏にしてもキプリング氏にしても、女性部分がかけらもありません。そのため女性からすると、両氏の持つ性質のすべてが、一般化して言わせていただくなら野蛮で未熟と思えるのです。彼等には連想させる力が欠けています。そして連想させる力というものが書物に欠けている場合、たとえば心の表面がどんなに叩かれようと、内側にまで浸透してくることはないのです。(pp.176-177)
「両性具有」な作家たち;

(前略)わたしは自分の中のいろいろな能力を呼び覚ますような本が読みたいと思うときには、ミス・ディヴィスやミス・クラフが生まれる前の、作家が心の両面を同じように使っていた幸福な自裁に遡って本を探さねばなりません。わたしはシェイクスピアに遡らなくてはなりません――シェイクスピアなら両性具有ですから。キーツ、スターン、クーパー、ラム、コールリッジもそうです。たぶんシェリーには性別がありません。ミルトンとベン・ジョンソンは、少しばかり男性面が過剰です。ワーズワーストルストイもそうです。現代ではプルーストが完全に両性具有的です――たぶん女性部分が少し過剰かもしれません。しかし女性部分が少し過剰だからといって、そんなひとはとても稀少ですから、不満を言う筋合いのものではありません。とにかくその種の混合がなければ知性ばかりが支配的になり、心の他の能力は硬化して不毛になるのですから。ともあれ、こんな事態もたぶん過渡期だけのことでしょう。(pp.178-179)

*1:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20170419/1492571662

*2:訳注によれば、ゴールズワージーの『現代の喜劇』の最後のエピソード。但し、「絵が頭上に落下してきた衝撃がもとで死ぬのは老ジョリオンではなく、甥のソームズ・フォーセット」(p.244)。