世界の中では意味もなく繋がりて

小川洋子の『博士の愛した数式』(新潮文庫

博士の愛した数式 (新潮文庫)

博士の愛した数式 (新潮文庫)

を読んだのはかなり前のことで、今年の前半である。

私と息子が博士から教わった数えきれない事柄の中で、ルートの意味は、重要な地位を占める。世界の成り立ちは数の言葉によって表現できると信じていた博士には、数えきれない、などという言い方は不快かもしれない。しかし他にどう言えばいいのだろう。私たちは十万桁もある巨大素数や、ギネスブックに載っている、数学の証明に使われた最も大きな数や、無限を越える数学的観念についても教わったが、そうしたものをいくら動員しても、博士と一緒に過ごした時間の密度には釣り合わない(p.6)。
「博士」の信念に反して、生きられる世界は「数学の言葉」には還元され得ない。勿論、小説の言葉にだって還元され得ないだろうが。ただ、この小説を読みつつわかることがある。世界の中では、様々な物事が数学的に繋がっているということだ。大した意味もなく。或いは意味以前的に。「4の階乗」である24が「実に潔い数字」であったとしても(p.13)、5761455が「1億までの間に存在する素数の個数に等し」くても(p.14)、220と284が「友愛数」であったとしても(pp.28-33)、そこに何か特別の意味が発生するわけではない。意味があろうとなかろうと、そこにはただ或る関係(繋がり)が存在しているだけだ。たしかに、その事実は魅惑的なのだが、その魅惑につられて、そこに深遠なる意味などを無理矢理賦与したりすると、チープな神秘思想、疑似科学に陥ってしまう危険がある。勿論、この小説ではそんなものに深入りはしない。ただ関係が存在するという事実が、驚きの痕跡を残しつつ、プロタゴニストである「私」によって、淡々と回想されていくだけだ。このことは別の効果を生んでいる。「私」と「博士」と「息子」との関係は、主人/家政婦の関係、恋愛関係、家族関係等々には還元されない。意味以前的に繋がっている〈関係〉そのものと言えばいいか。或いは〈愛〉それ自体?

この世で博士が最も愛したのは、素数だった。素数というものが存在するのは私も一応知っていたが、それが愛する対象になるとは考えた試しもなかった。しかしいくら対象が突飛でも、彼の愛し方は正統的だった。相手を慈しみ、無償で尽くし、敬いの心を忘れず、時に愛撫し、時にひざまずきながら、常にそのそばから離れようとしなかった(p.95)。

私が推察するに、素数の魅力は、それがどういう秩序で出現するか、説明できないところにあるのではないかと思われた。約数を持たないという条件を満たしながら、一個一個は好き勝手に散らばっている。数が大きくなればなるだけ見つけるのが難しいのは間違いないにしても、彼らの出現を一定の規則によって予言するのは不可能であり、この悩ましい気紛れさ加減が、完璧な美人を追い求める博士を、虜にしてしまっているのだった(p.97)。

数へのオブセッションといえば、ケイト・ブッシュの”π”。円周率に取り憑かれた男。多分、それは〈全体性〉という問題、或いはclosedness/opennessの対立があると思うのだが。


ところで、「墨絵に色彩を加え」(p.289)ても「油絵」にはならないですよ、藤原正彦先生。