「偶然」と「必然」

千葉雅也氏*1曰く、


たしかに、例えば推理小説(探偵小説)というのは、一般に偶然(のように見えるもの)から必然(正解)を構築し、最初偶然に見えたモノやコトを必然(正解)のためのエヴィデンスとして包摂する。探偵が介入すればするほど、推理すれば推理するほど、偶然性の迷宮に陥っていくというストーリーがあったら、それは推理小説(探偵小説)といえるのだろうか。「純文学」が安易な「必然」を拒絶するというのはその通りだとしても*2、それは「偶然」の称揚になるのだろうか。そうではないだろう。「偶然」というのは「必然」との対立において意味を持つものにすぎないからだ。だから、「純文学」で目指されるのは、「必然」でも「偶然」でもなく、「必然」と「偶然」が分岐する以前、モノやコト(出来事)が端的に存在したり生起したりすることなのではないだろうか。世界は条理でも不条理でもなく端的に存在すると言ったのは誰だったっけ?
小説を読んで、(私の語彙があまりに欠如しているせいで)言葉でよく表現できないのだけど、ああ小説を読んだな! という満足感を味わうことがときどきはある。別に、道徳的な指針を得たり、知識が増えたりして賢くなったと感じるわけでもない。また、修辞などの言葉のワザを凄いと思うわけでもない。この感動は、「必然」に還元されることなく、またあからさまに「偶然」を誇ることもなく、確かさを以て、モノやコトが存在したり・生起したりすることを見届けたことの満足に由来するものだ、と勝手に思っておくことにしよう。
そのような意味で感動した小説を挙げると、例えば小山田浩子「いたちなく」(in『穴』)*3、また今村夏子の「おばあちゃんの家」と「森の兄妹」(in 『あひる』)ということになる。
穴 (新潮文庫)

穴 (新潮文庫)

  • 作者:小山田 浩子
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2016/07/28
  • メディア: 文庫
あひる (角川文庫)

あひる (角川文庫)