道具としての「愛国心」

作田啓一先生*1が「教育基本法改正案」と「愛国心」について触れている。その中で、


第一に、愛国心の称揚は排外主義的ナショナリズムへと通路づけられる危険がある。昨年上海などで大規模の反日デモが展開された時、これを苦々しく思った日本政府の要人たちのあいだで、この運動は中国政府が内政に不満をもつ民衆の攻撃的エネルギーを愛国排外主義へと向けさせ、内政批判をそらせた、という見解が出た。この見解がどの程度的を射ていたかどうかはまだ明らかではない。しかしともかく、この見解を述べた政府の要人たちは、愛国心は排外主義的ナショナリズムへと通路づけられること、そしてこの通路づけは政治権力の安定に利用されることをよく知っていたのだ。政府の要人たちだけではない。自民党議員の中にも、そしてまた日本人の一部の中にも、この認識は共有されていた。そして彼らすべては中国民衆のこの反日的態度を苦々しく思っていた。だとすれば、日本人のあいだで排外主義が盛り上がると、その対象となる国々は苦々しく感じることだろう。そして時の政治権力の担い手が内政への批判をかわすために、愛国心を排外主義へと向かわせようとしそれを悪用することもあるだろう。それらのことが分かっていながら、同じ道を選ぶことを望んでいるのだ。
 「自然」のままの愛国心でも排外主義を潜在的に含んではいるが、政治的人為によって拍車をかけられない限り、節度を越えて攻撃的となることはない。愛国心の称揚が法制化されると、他国に迷惑を与え、国際の平和的秩序を脅かす危険が生じるのである。
とおっしゃっている。
ここで重要なのは、「愛国心」の国際関係への効果もさることながら、「愛国心」が道具として使えるという認識(というか、「政府の要人」を含めた人々がそのように認識しているという認識)である。
昔からある種の〈機能主義〉的な言説には疑問を持っていた*2。例えば、ゼミのみんなをまとまらせるためにコンパをやりましょうとか。この種の言説では、ある振る舞いを何か別の目的のための手段として諒解する人とその振る舞いをベタに振る舞う人の分離が前提とされている*3。或いは、考えること行うことの分離。道具としての「愛国心」でいうと、一方ではベタに「愛国」的であることが要請される人たちがいて、他方には「愛国心」を道具として使いこなす人たちがいるということになる。後者についていえば、「愛国心」のイデオロギー的呪縛から自由であること、さらには「愛国心」を括弧で括って中和化変様させる能力も要求させる能力も要求されるだろう。かつて、久野収鶴見俊輔は日本近代における「顕教」と「密教」ということを言った。例えば、戦前の憲法解釈における「天皇機関説」の位置づけとか。多分、これからも「愛国心」を巡って、「顕教」と「密教」が並立する体制になるのだと思う*4。戦前期の美濃部達吉らへのバッシングがそれなりの大衆的基盤を持っていたとすれば、それは「顕教」/「密教」(大衆 /エリートという断層とも重なる)というある種のダブル・スタンダードに対する異議申し立てという意味を持っていたのかも知れない。とすれば、「愛国心」を巡ってどのような異議申し立てが主流になるのかはかなり予想しやすいということになるのではないか。
ところで、「愛国心」を巡っては、そもそも「愛国心」って何だという突っ込みがある。そのような突っ込みは概ね正当なものではある。しかし、この「顕教」と「密教」の並立はこの突っ込みに対する(答えにはならない)答えを用意しているとも考えられる。「ベタに「愛国」的であることが要請される」ことによる利得は何かといえば、大幅な思考負荷の免除であろう。「愛国心」って何だということをいちいち考える必要はないというか、そんなことは誰かエラい人が考えてくれるのであって、必要なのは、そのサインを読み取り、そこから適切な振る舞いを導くことだということになろうか。

*1:http://gekko.air-nifty.com/bc/2006/05/post_026f.html

*2:安易に〈機能主義〉というと、酒井さんに怒られるので、道具主義といった方がいいか。

*3:所謂〈戦略的本質主義〉なるものに対する嫌悪感も同じ理由に発する。

*4:オウム真理教風に言えば、「密教」に属する人たちの中に、さらに〈秘密金剛乗〉に達する人がいるということになろうか。