向坂逸郎という名前を見たのは何年ぶりか。これはいつ頃の話だろうか。1960年代か70年代だとすると、ここで使われている「ゲイ」という言葉は筆者の黒川さんによって、PCな用語に直されたものである可能性がある。「ゲイ」という言葉は、少なくとも日本語の文脈では今のような意味では使われていなかった筈だ。ここだけは、70年代の人が〈トルコ風呂〉といわないで〈ソープランド〉といっているような感じがした。ところで、こういう「暴言」は旧左翼でハードコアなスターリン主義者である向坂逸郎でなくても、取り敢えずは新左翼に属する、多分フーコーだって読んでいたであろう菅孝行も、それも1980年代になって! していたのを読んだことはある。
愛国心教育は、トンデモ理論で実施されている。そもそも愛国心教育を議論するときには、公教育にとって必要なのか、意味があるのか、という視点から行われるべきだろう。しかし、今日愛国心の必要性が語られているのは規範性の確立だ。コンビニの前でべた座りしている若者や所かまわず携帯電話を使う若者、子どもたちの生活態度や、いじめなどの人権侵害への特効薬のように「規範意識」という言葉を経由して必要性が語られている。愛国心が規範性につながるのか、規範性がいじめをなくすのか、そんなもんではないだろう。こんなこと言ってはなんだが、10代で日の丸と特攻服の大好きな若者が、駅前で座り込んでたばこ吸っているではないか。かつて社会党最左派の教祖・向坂逸郎というおじいさんが、ゲイの東郷健に「君も社会主義になればゲイも直る(科学的な社会になりゲイの原因も科学的に究明されて治療ができるという意)」と暴言を吐いて問題になったが、それに近い暴論だと思う。愛国心って、売薬のようなものなのだろうか。
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