「愛国心」(清水幾太郎)

海老坂武『戦争文化と愛国心*1から。
海老坂氏は、「最初に」「愛国心というものをトータルに分析」したのは清水幾太郎愛国心』であるといい(p.138)、節をわざわざ設けて、清水の本に言及している(p.140ff.)。
清水は、「愛国心」を「自分の国家を愛し、その発展を願い、これに奉仕しようという態度」と定義する(p.140)。清水によれば、日本の「愛国心」は「明治国家」によって「培養」「強制」されたものであって、「民主主義との結合を欠いていた、民主主義によって合理化されていなかった」(p.142)。具体的には、


(1)愛国心の対象。愛情と放恣の対象は天皇であって、八千万の仲間に対するものではなかった。
(2)非寛容。上から培養・強制されたものであるので、寛容とは両立せず、反対派の愛国心を認めなかった〔一億一心〕。自分一人が愛国者であると思い込み〔孤忠〕、他者に対して暴力的に退所する。
(3)夜郎自大。日本人は「神の子」、世界の事情に通ぜず、他の国の人間の人間性を認めない〔鬼畜米英〕。これは後進国の劣等感と結びついている。
(4)軍国主義。対話なく相手を悪魔として武力がすべて。愛国心は苦行的となり戦争と結びついている。
(5)神道神道は故人の魂の問題に触れる世界宗教ではなく民族宗教にすぎぬため、イコール日本精神として、諸宗教の上に君臨して愛国心を狭隘な非人間的な方向へと導いた。
(6)個人原理の欠如。愛国心が、個人の反省、判断、決意に基いていないため、反対者との討論や論争に堪えられぬ。
(7)世界市民の視点の欠如。コスモポリタニズムによって愛国心を緩和できなかった。一部の知識人に見られたコスモポリタニズムは息苦しい日本の現実からの逃避であり、この現実のうちに苦しむ日本の民衆への無関心を特徴とした。(pp.142-143)
「民主主義との結合を欠い」た「愛国心」は独逸や露西亜でも見られた(p.143)。
清水によれば、「愛国者」たらんとするのに必要な「最低条件」は以下のようなものである;

(前略)第一に、天皇ではなく同胞に対しての「素直な愛情」「自然な愛情」。第二に、意見の対立を認める寛容の精神(自分だけが愛国者だと思うな)。第三に、問題解決のための戦争との絶縁(再軍備の要求は愛国者の任務にあらず)。第四に社会の拡大、世界への焦点(民族国家が究極的意味を失いつつあることを洞察せよ)、第五に身辺の小事への関心(天下国家ではなく)。(p.145)
なお、清水はその後、極右文化人として活躍するが、極右化した晩年においても、「愛国心」とは「距離をおい」ていた。例えば、「愛郷心の拡大延長や自然的な習慣や覚悟といった罪のない形態を別にすれば、愛国心というのは、結局のところ、政治的意見といううことにほかならない」「自ら主張し擁護するに足る政治的意見を持たない人間や集団だけが、愛国心を裸のままで振廻すのである。ほかには芸がないのであるから」(Cited in p.148)。