煙は何処へ

4月5日は清明*1
ところで、薛理勇「清明節は鬼の火」(『WALKER上海』2006年4月号)には、


中国人はずっと、陰と陽の世界はつなげられる、つなげるには物を燃やすのが一番簡単だと考えていた。陽の世界の物を燃やせば、ゆらゆらと立ち上がった煙が陰の世界へと届く。ゆえに人々は紙を銅銭のように切って作った紙銭と、錫の箔を銀元宝に似せて作った長錠を用意し、先祖を祀る時に陰の世界に住む人々(死者)使えるようにとこれらを燃やして陰の世界へ送り届けた(p.85)。
とある。
「陰の世界」はやはり地下だろうな。そうすると、煙は究極的には地下へ行くのだろうか。何故こんなことを書くのかといえば、レヴィ=ストロース先生がネイティヴ・アメリカンの神話から抽出した煙草を巡る神話論理(mytologique)と齟齬を来してしまうからだ。尤も考えてみれば、太平洋を挟んで全く違う文化なのだから当たり前かも知れないのだが。その神話論理によれば、煙草は未分の世界そのものであり、火を点けることによって、天と地の分化が再演される。すなわち、煙(天)/灰(地)。もしかしたら、「陰の世界」に届くのは煙ではなく、灰なのではないか。中国文化においては、煙を巡って別様の観念もあるようだ。天壇で皇帝が生贄を焼く。それは煙として天へ届けるために行う。ではその場合、灰はどうなるのか。よくわからない。
そもそも、天−地、陰−陽という単純な二項対立で考えるのが拙いのかもしれない。日本神話のコスモロジーでは世界は、「高天原」と「黄泉」、そしてその中間たる「葦原中国」の3層からなる。それを中国に当て嵌めれば、地上から発した煙は場合によって、天上にも地下にも行くということになるのか。灰が残るのは地上である。そうすると、地上(灰)/天上=地下(煙)という対立が生成されることになる。これでもよくわからない。

*1:陳輝楠、欒曉娜「清明節122万市民掃墓」『東方早報』2006年4月6日。