揚げ足取りを少々

〈ルサンティマン問題〉或いは〈成り上がり者〉問題について考えていたけれど、あまり考えが纏まらない。今問題になっているのは、古典的なそれとは違うのだろうということはわかる。いや、今風の〈ルサンティマン問題〉の陰に古典的な〈ルサンティマン問題〉は隠蔽されてしまっているのも知れないけれども。そもそも古典的な〈ルサンティマン問題〉に苦しむ人から見れば、それは恵まれし者同士の争いに映るのかも知れない。一見すると、何故それがルサンティマンのネタになるのかわかりにくい。例えば、〈非モテ〉問題とか。少し昔だったら、そんなことは大したことないこととして扱われていた筈だ。だって、それなりにいい大学やいい会社に行っているわけでしょ。それに全くの孤独でもない。しかし、現在形的な幸福感はないわけだ。ただ、そういう人たちもとにかくルサンティマンをチャージしながら、将来的には出世して、ルサンティマンを外部にディスチャージできる社会的位置に立つ。その帰結はどうなるのかわからない。あまりよろしくはないという気はする。宮台さんの、


より一般的には、世代を限らず「多様性(を許容するリベラルさ)が自分を脅かす──少なくとも自分の利益にならない──」と感じる者の増加がポイントです。多様性をエンジョイできるのは「恵まれた奴ら」だけだと。
という言明*1も「あまりよろしくはないという気はする」ということの根拠らしきものの一つではある。実際そういう印象は感じられる。
ここから先、あまり考えも纏まらないので、少し揚げ足取り。宮台さんの近著の先行リリース分*2ですが、

■ 保守陣営や宗教陣営は対処に成功しますが、革新陣営が失敗します。宗教陣営の動員は元々都市部の「故郷喪失者たち」(ルックマン)を母体とするので、さして問題ない。また保守陣営は「不安ゆえに『断固・決然』に吸引される都市無党派層」すなわち「都市型保守」を母体とするようになる。これが前述した地殻変動です。革新陣営だけが、冷戦後の左翼弱体化や共同体的メカニズムの空洞化に、抗う術を持たず、退潮します。
Homeless Mindの執筆にルックマンはコミットしていません。ところで、ここでルックマンが出てくるのかはちょっと不思議。何しろシュッツの遺稿『生活世界の構造』を完成させているわけですから、ルックマンが現象学的社会学者としてはバーガーよりも重要な存在であると見做されているにしても、宗教社会学をやっている人以外では、何となくバーガーのおまけみたいに見做されているというのが正直なところじゃないですか。バーガー論に比べたらルックマン論なんていうのは微々たるものだと思う。ここで日本製の概念を使うなら、藤井正雄先生の「宗教的浮動人口」でしょうか。
また、

ハイデガーは人間が人間である条件を〈配慮〉に求めます。他者からどう見えているのかを気遣うことです。〈配慮〉するには他者の視線をとれなければなりません。ミードの言う「役割取得」であり、パーソンズの言う「視界相互性」です。かかる役割取得や視界相互性を支えるのが〈生活世界〉です。〈生活世界〉が空洞化すれば役割取得や視界相互性の可能性は減少し、〈配慮〉は難しくなり、人間であるのが困難になります。
reciprocity of perspectiveって、パーソンズいってましたっけ。reciprocity of perspectiveというのは、実際にそれが達成されるかどうかというよりもまず無根拠に定立されるものだとは思うのですが、それはそれとして、reciprocity of perspectiveが困難な社会というのは、ある意味で非常に善良な社会。reciprocity of perspectiveが困難だというのは詐欺を行うのも困難だということですから。話は逸れるけれど、いかさま師こそルールを愛しているというゴッフマン的問題とも通底するか。