砦の上に我らが世界?

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Econthoughtさん経由で知る。
9月1日付の『産経』の記事と10月13日付の『朝日』の記事が全文引用されている。それを読むと、日本でもゲーティッド・コミュニティが着々と構築されているんだな。「東京・世田谷はゲーテッド型マンションの激戦区になりつつある」(朝日)。
勿論、以前にも書いたが、都市というのはそもそも城壁で囲まれたゲーティッド・コミュニティといえるだろうし、現在都市における一般的な居住形態であろう集合住宅というのも近代化によって城壁が消滅してしまった都市内部のゲーティッド・コミュニティといえるだろう*1。また、櫻井進*2『江戸の無意識』とかを参照していただきたいが、落語でお馴染みの〈長屋〉の空間もまた一種のゲーティッド・コミュニティといえる。

江戸の無意識―都市空間の民俗学 (講談社現代新書)

江戸の無意識―都市空間の民俗学 (講談社現代新書)

ということで、コミュニティというのはそもそも閉域なので、ゲーティッド・コミュニティそれ自体への批判はしない。しかし、あらゆる空間が囲われてしまうと息苦しい。だからこそ、囲われた(プライヴェートな)空間とともに公共的な空間が要請されるわけだし、プライヴェートな空間であっても、囲いの緩さや綻びはその息苦しさを緩和するために許容されることになる。新設のゲーティッド・コミュニティへの反撥は周辺の住民が半ば公共的な空間として自由に通り抜けたり・散歩していたりした空間を勝手に囲い込んで排除することへの反撥でもあるだろう*3
さて、ゲーティッド・コミュニティ需要の背景として、治安の問題が挙げられている。治安悪化云々という言説の多くが(様々な意味で)マーケティングの言説であることに注意しなければいけないということはある*4。ここで指摘したいのは、先ず治安の悪化というリアリティの信憑性が当の囲い自体によって担保されているという一面もあるということだ。囲いの内/外という空間的な区別は安全/リスク、秩序/無秩序という意味的な差異を同時に含むものであるから。さらに、ゲート或いは塀の外への効果も考えなければならない。ここで言いたいのは格差社会云々というようなことではない。というか、私は〈弱者の味方〉などではない。ここで言いたいのは寧ろ、〈弱者〉のルサンティマンだ。治安の悪化(リスクの増大)言説はゲート或いは塀の内外問わず蔓延っている。だからこそ、ゲーティッド・コミュニティへの移住の需要があるわけだ。お手頃価格のゲーティッド・コミュニティもあるらしいのだが、経済的な都合でそこへの移住が叶わない〈弱者〉に芽生えるのは、金持ちどもは安全な場所を買っているけれど、俺たちは丸ごとリスクに曝されているぞというルサンティマンであろう。その揚げ句、「独裁者」としての「世間様」*5を構成している〈弱者〉が要求するのは厳罰化とかだろうし、さらに囲われていない空間、社会空間それ自体を巨大なゲーティッド・コミュニティにしろということ*6だろう。かくして、増大するのは息苦しさ。
それにしても、広尾に建設中の「広尾ガーデンフォレスト」というのは名前それ自体が凄い。砦! 砦の上に我らが世界築き固めよ勇ましく、お前ら東大全共闘か。ところで、囲われた空間としてのゲーティッド・コミュニティだが、当然刑務所とかオウム真理教サティアンとかも含まれるということは忘れてはならない。
また、思想史的には〈ユートピア思想〉の延長線上として考えなければならないのだろう。マンフォード『ユートピアの系譜』とかセルヴィエ『ユートピア』とかを復習すべきなのだろうけど、生憎これらは今手許にない。
ユートピアの系譜―理想の都市とは何か

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ユートピア (1983年) (文庫クセジュ)

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