『芸妓回憶録』

中国上映は結局取りやめになったが、そんなことはお構いなく、海賊版DVDは出ている。『ブロークバック・マウンテン』にしてもそうだ。
記憶が失せてしまう前にメモ書きをしておく。
まず、medusahimeさんのコメント*1。曰く、「本作のテーマは、家父長制文化の中で女性の従属的位置を認める”ロマンティック・ラブ・イデオロギー”である」と。また、


 人身売買の対象となるほど貧しい女性たち=弱者の醜い争いを徹底的に描く一方で、強者である金持ちの男性の多くが、友情や恩義を重んじる禁欲的で礼儀正しい人間として表現されている。

 彼らは、家庭の内と外で異なる性を楽しみながら、双方の女性を分断・対立させているのに。さらに、男性同士の連帯(ホモソーシャル)は、同性愛嫌悪と女性蔑視を秘めており、”女性のモノ化=交換”を通じて家父長制文化を温存させているのに・・・。


 本作は、表層的には国際色豊かな俳優陣と、新しい日本趣味の味付けで、斬新さを装っているが、内容は既存の家父長制文化の追認である。

 社会的にも文化的にも影響の大きい映画という芸術には、既存の意味の問い直しや新たな意味を見出すこと=問題提起の視点が不可欠だと思う。

medusahimeさんのコメントのもう一つの特徴は、ロブ・マーシャルの前作『シカゴ』との比較をしているところか。

私の感想。
終始、ソフト・フォーカスというわけではないのだが、画面がもやもやっとしており、それが画面に独特の湿り気を与えている。これは日本的な湿気を表現したのか、それとも現実ではなくファンタジーなんだという記号なのか。
ストーリーが散漫なのも確か。少女時代に時間を費やしたせいか、大人になってからは駆け足という感じ。あの太平洋戦争も数分で終わってしまう。だから、少女の社会化の物語としても、大人の恋愛の物語としても、中途半端な感じは否めない。実は映画に描かれなかったその後の人生、主人公が藝者をやめてからの人生の方が興味はある。タイトルの通り、この映画では、主人公のmemoirというナラティヴのスタイルを採っているのだが、どのような状況で回想しているのかは描かれない。私がもしリメイクするとしたら、この映画が終わった時点から物語を始めるな。昔を回想しつつ、如何にして余生を生き抜いたか。勿論、回想は散漫なものだ。というよりも、散漫にしか回想できない。しかし、散漫な回想にリアリティを賦与するのは、語る身体がそこにあるということだ。その語る身体を消してしまえば、そこに残るのは、無理矢理に繋いだ散漫なままの物語の断片でしかない。話を戻すと、散漫なストーリーを、相撲とか帝国陸軍といった日本的な記号によって繋いだという感じ。
medusahimeさんも述べているが、いちばんの不満は藝者の〈藝〉が描けていないということだろう。日本舞踊の稽古などは、ここではストーリーの本筋に組み込まれているというよりは、背景というか諸々の〈日本的な記号〉の一つでしかない。この映画の見所のひとつは、あの驚異の振り付けでもあるのだが、これはオリエンタリズム云々というのも勿論あるのだが、〈藝〉を描こうとしていないということの帰結であるのかもしれない。誰が振り付けをしたのか、今は詳らかではないが、ともかく扇子をぐるぐる回すのが好きなようで、これは上海雑戯団かよと笑ってしまった。
役者に関しては、鞏俐の演技は凄い。鞏俐の演技だけでもこの映画は観る価値が充分にあると言っておこう。考えてみれば、今回の役どころは、彼女が張藝謀の映画、特に『紅提燈高高挂』で演じた立場を逆転したもの。あと、ある世代以上の日本人にとってはショックではあるが、桃井かおりの老け役。但し、彼女の役はあの散漫な物語を辛うじて支えている柱のひとつではある。
また、林静さん*2曰く、


日本でも中国でも、中国の女優が日本人を演じたことに抵抗がある人が多いようだけれど、そもそもハリウッド映画なのだから、それでも全然構わないのだ。ハリウッド映画ではアメリカ人がフランス人を演じたりドイツ人になったりなんて当たり前だし、その逆も日常茶飯事。移民の集積の土壌で育った映画文化がもつあっけらかんとした民族文化への意識を非難してもはじまらない。むしろ、彼らの常識では、日本人と中国人の眼や肌の色や顔立ちが似ていることは、双方にとって演じられる役柄の幅が2カ国分であることを意味するにすぎない。

中国で京劇俳優として活躍されている日本人の方が、「章子怡の努力は正しいと思う」と言い切っていた。コン・リー自身も雑誌のインタビューで、「難しいのは日本人を演じることではなくて、花柳界の女性を演じることだった」と言っていた。きっとその通りなのだろう。言葉の壁はあるにせよ、究極の演技とは、役者自身が背景に持つ文化の違いを超えて人の心に響くものだ。そういった演技を目指そうとした役者たちの努力や、そのレベルにアジアの俳優たちを至らせるよう促した、つまりある意味で風穴を開けたハリウッドの試みは、面白かったのではないか。深読みかもしれないが、最近のアメリカの日中関係に対する物言いと似て、「日中もいがみあってばかりいないで仲良くしなさい」とメッセージを送っているように思った。