トリュフォー『終電車』(の話というわけではなく)

 最近愛読しているblogの一つに、「うさこ」さんの『うさこさんと映画』*1がある。最近、フランソワ・トリュフォー監督の『終電車』が取り上げられていた*2。実は私も以前『終電車』に言及したことがある*3。「うさこ」さんは、


いまもどこかでこの映画のタイトルを見かけると、すぐにドルリューの音楽が頭のなかで鳴りはじめる。ワルツだった。中世の含意では、三拍子は調和と円環を示唆するという。三人の演劇人が手をつないで観客の歓呼にこたえる、この作品のなごやかな結末にふさわしかった。この四年後に五十二歳で亡くなるトリュフォーの、さまざまな慈しみがあふれた一篇。
と書き出している。音楽、ワルツ、3という数字。これはわたしの注意から落ちていたところである。
映画を観る。その同じ映画について他の誰かが語っている。それを私が聞いたり読んだりする。それは映画についての経験と記憶を私の主観性という閉域から救い出してくれる。私の経験と他人の経験、その重なりとずれにおいて、その映画という出来事は私の主観性を超えた客観性を確保するのである。私の主観性の届かないアスペクトがたしかに在るということを他人の言葉を通じて、私に主観的に納得させることによって。また、映画という出来事によって、その映画について他人が語ることによって、私は(理念とか価値観とかではなく)その映画が存在する世界を共有する共同体を、その共同体に私が否応なく参与してしまっているということを知る。