先週村井さんにその御論攷「“地上最強”のポストコロニアル――トランスアジア空手研究に向けて――」(『神奈川大学評論』52、2005、pp.87-95.)をいただき、一読したのですが、面白かったです。娯しませていただきました。
多分、論攷の柱は、〈空手〉*1というカテゴリーが構成されるにあたっての「象徴政治」における〈二重の周縁性〉の働きとその〈帝国〉との(癒着も含めた)鬩ぎ合いということになるのかと思う*2。
あとは、本来的には余白へのメモ書きなり。
大山倍達にとっても師にあたる曹寧柱にとっても、石原莞爾が〈重要な他者〉として登場するけれど、石原といえば、日蓮主義なわけで、日蓮主義は大山=〈空手〉にはどのような効果を及ぼしているのか。斎藤貴男の『梶原一騎伝』にはたしか大山と日蓮主義の関係についての言及があったと思う。曹寧柱は京都の立命館大学に学んだわけだが、立命館は石原莞爾とも関係が深い。〈拓殖大学〉というそのまんまな校名の大学もあるわけだが、大学と殖民地主義或いは殖民地政策との関係というのは興味はあるが(私にとっては)未知の領域。
武術から武道へ*3。武道の二面性。「科学的合理主義・教養主義」と結びつく「スポーツとしての側面」と1930年代以降の「精神主義」的側面。これは多分、〈近代(主義)〉の二面性と関係があるだろう*4。
東亜細亜を超えて。ナショナルなものの構築にはグローバルなコンテクストというか文化市場が関わっている。極真空手のその後の展開だと、キース・エマーソンやポール・ロジャーズやジャン=ジャック・バーネルが入門したことによって、逆輸入的に日本のロック・ファンが空手に興味を持つようになるとか。或いは、映画において空手といえば、千葉真一=ソニー・チバであり、今や国際的なスターとなり、中国の警察幹部にもなっている真田広之は千葉真一の弟子にあたる。村井さんの論攷で問題になっている時期では直接的には問題にはならないのかも知れないけれど、欧米を中心とするグローバルな文化市場におけるオリエンタリズム的な視線への(反発や迎合を含めた)応答という側面は重要だと思う。
最後に、「国境を超えた人、モノ、情報の往来が空前の規模で行われている今日、歴史をめぐる記憶は却って国籍化され、地域横断的な文化領域への想像力は、むしろ乏しくなっているようにも見える」(p.93)という指摘はよく噛み締めるべし。