18と19など

http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080408/p1を読んで、18世紀と19世紀の違いについて思った。先ず、「啓蒙主義」が「ヨーロッパ中心主義」だというのは果たして妥当なのだろうか。啓蒙思想が啓蒙しなければならないとした対象は当時のヨーロッパの諸社会そのものだった。啓蒙思想中国文明その他の他の文明、希臘や羅馬などの古代或いは〈高貴な野蛮人〉*1を参照しつつ、当時の啓蒙されていない〈ヨーロッパ社会〉を批判するというものだったのではないか。以前に、


Maria Misra “Before the Pith Helmets” New Statesman 8 October 2001, pp.31-33


という短いテクストを読んだことがある。これによると、18世紀の印度において、少なからぬ英国人が印度文明への同化、例えばイスラームへの改宗を選択した。18世紀においては、印度や中国などの他の文明というのはヨーロッパ人にとってはまだ〈憧れの対象〉だったといえる*2。それが一変するのは19世紀に入ってからだろう。経済史的にいえば、それが〈帝国主義段階〉への突入ということと平行していることは間違いない。同時に19世紀の特徴としては、(カトリックプロテスタントを問わず)基督教のアグレッシヴな海外布教が開始されたということがいえるだろう。これも国内市場が飽和したために新市場を海外に求めるという経済的なロジックに従っていたともいえるのだが、何れにせよ前世紀的な啓蒙思想の言説などがこの過程で(例えばオリエンタリズムという仕方で)再編成されたということはあるのだろう。
さて、ヘルダーなどの言説だが、これはナポレオンによる〈啓蒙=革命の輸出〉への反作用ということと関係があるといえる。「文明」と対立するものとしての「文化」。経済的・政治的に後れをとっていたとしても〈精神〉的にはこっちの方が高貴だぜというナショナリズム的なプライドというか(さらに言えば)〈負け惜しみ〉。ただ、19世紀後半になって、独逸が化学という新産業をコアとして経済的にも軍事的にも強国となると、これは独逸自身にも向けられることになる。例えば、ポール・ヴァレリーの独逸嫌いとか。
さて、「文明」ということで、上に記したこととは別に19世紀に起こった重要な出来事として、〈印度ヨーロッパ語族〉の〈発見〉ということがあったのではないか。これが政治的な準位においてどのような機能を果たしたのかは(少なくとも私には)わからないが、少なからぬ知識人に対して、どのような文化もより大きな全体の一部でしかないという相対性の感覚を齎したことは間違いないだろう。例えば、デュルケームとモース;


Emile Durkheim & Marcel Mauss “Note on the Notion of Civilization”(translated by Benjamin Nelson) Social Research 38, 1971, pp.808-813

*1:これは実は〈殖民地主義〉の効果でもある。〈高貴な野蛮人〉という形象は主に殖民の結果齎されたアメリカ大陸先住民についての情報に基づいたものだったからだ。

*2:但し、アフリカについては発言を留保しておく。