安倍晋三と「教育」

承前*1
「何故安倍氏が「ライブドア事件」と「教育」の間に因果関係を設定するのかはわからない」と書いたが、それについて、作田啓一先生*2が丁寧に解説されている。曰く、


では安倍長官は何を根拠にしてライブドア事件を教育のせいにするのか。その根拠は規制緩和と事件とのあいだに介在する個別的要因にある。それはハンディキャップのゆえに企業をなりふり構わず私利へ向けて突進させる要因であり、この粗野な自己中心性にのみ事件の責任を負わせようとするのが、長官の、いや自民党内に広く広がっている論理であるようだ。この論理を推し進めてゆくと、教育にゆき着くのである。この粗野な自己中心性を養成したのは教育である、とされているようだ。この自己中心性を抑制するのは愛国心のほかにはない、だから愛国心の養成を盛り込んだ改訂版教育基本法が不可欠ということになる。ここまで論理が展開されると、あちこちに飛躍があってとてもついてはゆけないが、ライブドア事件教育基本法の改正につなげる論理は何かと問うなら、およそ以上のようなつながりとなるだろう。
ここから、「市場原理主義」と「ナショナリズム」の齟齬が〈小泉的〉に内在する矛盾として剔抉される。さらに、「教育が立脚している」「文化的普遍主義」と「一国の、そしてとりわけ一政府の個別主義」との矛盾を説く。
考えてみれば、これは以前書いた、あらゆる問題が「教育」と「医療」の問題になって、「政治」が消滅してしまう社会というのと関係がありますね。安倍のいう「教育」というのは、「教育基本法」云々を強調しているように、第一義的に知識や技術の伝授に関わっているのではない。それは〈心〉をターゲットとしたものだ。心の問題ということで、「愛国心」とも〈自己責任〉を強調する新自由主義(ここでの作田先生の用語法では「グローバリズム」)とも平仄が合ってしまう。心の問題である限り、それが「政治」問題化することはないからね。因みに、ここでいう「政治」は〈統治(governance)〉と区別されるべきことはいうまでもない。
ところで、安倍晋三だが、

安倍氏は一昨年に長崎県佐世保市で起きた小6女児による同級生殺害事件の直後にも、「大変残念な事件があった。大切なのは教育だ。子供たちに命の大切さを教え、私たちが生まれたこの国、この郷土のすばらしさを教えてゆくことが大切だ」と、教育基本法改正の必要性を強調している。命の大切さを教えることと愛国心の養成とのあいだの非連続を一気につなげてしまっているこの欺瞞的論法に、つられてはいけない。
という〈前科〉があったことを改めて想い出す。