山口二郎語る

 『SENKI』によるインタヴュー;
 http://www.bund.org/interview/20060215-1.htm
 http://www.bund.org/interview/20060225-1.htm


今ちょっと余裕がないので、気になった部分の切り貼りに留める。
まず、http://www.bund.org/interview/20060215-1.htmから;


言い方はよくないですが、都市部の「負け組」「負け組予備軍」と呼ばれる人々、とくにフリーターといった形で低賃金労働をしている若い人たちが、小泉改革を強く支持するという現象が続いて来ました。彼らは本来、小泉改革によって不利益を被る人たちなのですがね。なんとも歪んだ事態が続いてきたわけです。

 これはやっぱり日本の場合、残念ながらパブリック(公的)セクターに対する信用が全然ないということが原因だと思いますね。本来、公平や平等を実現すべきパブリック・セクターのシステムの中に、腐敗や既得権が澱のように積み重なってしまっているという現実があるわけです。社会保険庁の役人の乱脈や、地方における様々な交付税や公共事業費の無駄遣いとか、そうした問題です。こうしたパブリック・セクターにおける腐敗、政官業の癒着構造によって、年金制度にしても医療保険制度にしても、このままでは持続可能ではなくなってしまうという現実に、多くの国民が気づいてしまったわけです。

 そうなると、都市部の負け組や負け組予備軍のフリーターの若者にしてみれば、本来、個人にふりかかるリスク――失業や破産、あるいは病気や事故――を社会全体で引き受けるための社会的セーフティ・ネットであるはずの年金や医療保険、あるいは地方交付税といった仕組みが、単なる「大きな政府」による搾取の仕組みでしかなくなってしまった。そこに小泉改革に対する、爆発的な支持の原因があったのだと思います。

 日本のパブリック・セクターに対する国民の不信は理解できます。しかし、小泉改革というのは、リスクの社会化の仕組みを補強するものではなくて、全く逆に、リスクの社会化システムを全部ぶっ壊すというものです。人々をバラバラの個人に分解し、リスクに対して誰をもむき出しにするという意味での「平等」の実現こそ、小泉改革の本質なわけです。

納得はするけれども、やはり意識調査とかの数字による実証データは欲しいよね。

東京で大地震がおきれば、いかに人々の生活や企業の活動の土台が脆いのか、誰もが気づかざるをえなくなる。新自由主義者は、そういう時にも、自己責任・自己努力って言えるのでしょうかね。水も食い物も援助してやんないぞ(笑)、と言いたい。人は自己責任だけでは生きていけない。個人が負いきれないリスクは、社会全体で引き受けていく必要があるのです。
この意地悪さは好!であるが、http://www.bund.org/interview/20060225-1.htmの方の、

 一番困るのは、自民党の内部で「振り子の論理」が働いて、例えばポスト小泉にもうちょっと穏健な谷垣(禎一・財務大臣)や福田(康夫・元内閣官房長官)が出てきて、「小泉路線は修正します」などと言い出すことです。自民党が昔の自民党に舞い戻って、自民党型再分配で弱者を抱え込むような政策をとったら、日本の政治は一歩も前に進まなくなってしまう。

 そういう意味では私はちょっと矛盾していますが、小泉には目一杯突っ走ってもらってポスト小泉も安倍晋三みたいな中身の空っぽな政治家(笑)になってもらった方が、日本の政治はよくなると思っている。その方が、「リスクの社会化」路線プラス「アジア協調」、あるいは多極主義=マルチラテラリズムを軸とする対抗勢力が集まりやすい。21世紀の新しい社会民主主義勢力も結集しやすくなると思っている。だから私は立場をこえて、「安倍晋三ガンバレ」と言いたい(笑)。

はどうよ。市野川氏はどう突っ込むのか。これって、〈レーニン主義〉しているというか、仕組みとしては、〈社民主要打撃論〉に近いのでは?
続いて、http://www.bund.org/interview/20060225-1.htmの方;

自由主義者は、人間は違うという前提で社会像を構築します。それに対して左派は、人間は基本的なところは同じだという発想で社会システムを構想します。まずは「生命の平等」、それから人間の発展、あるいは成長の可能性における平等、それを損なっている条件を取り除くというのが、左派の理念の根底にあるわけです。先ほど鈴木宗男さんに関連して言ったことですが、「自分のせいじゃないことで不幸になるという事態をなるべく防ぐ」というのが、左派の政治理念の基本だと思う。

 鈴木宗男さんなどに代表される旧来の自民党田中派型政治というのは、ある種「左派」の役割を代替してきたところがあるわけです。普通、先進国では、保守党と労働党共和党民主党リベラルが、「小さな政府」と「大きな政府」で対立する。ところが日本の場合、左派政党がマルクス・レーニン主義の影響を受けすぎてしまったため、左派が右派と同じ土俵で政権交代を競うといったモデルが誕生しませんでした。その結果、政権与党の自民党の中で右と左を役割分担していくといった時代が続いたわけです。

 小泉さんは、「小さな政府」と対米従属という柱をたて、そうした方向で自民党純化した。こうした変化は、不可逆的なものなのだと思いますね。自民党が再び右と「左」を包摂するといったことはありえないでしょう。小泉改革に反対する勢力が自民党内でヘゲモニーをとろうとすれば、かなり大きな権力闘争になる以外ありません。そうなれば自民党から粛清された部分もそこに加わり、新たな政界再編が不可避になると思いますね。

ほぼその通りだと思う。ただ、「自由主義者は、人間は違うという前提で社会像を構築します」というのは少々検討の必要があるのではないか。

貧乏とか不幸を知っているかどうかは、左と右を分かつ非常に大きなファクターだと思います。だってね、東京の中高一貫の学校を出て、東大を卒業して、米国とかに留学したとか、そういった経歴を持つ元官僚や元大企業サラリーマンに、「平等の必要」なんて言ったって分かるはずがないのです。「普通の人が普通に生活できるように」なんて言っても、そもそも彼らには「普通」というのが分からない。フランス革命の時、貧乏人が「パンを食べることができない」と言ったのに対して「お菓子を食べればいいじゃないの」といった王妃マリー・アントワネットみたいなもんですよ、本当に(笑)。

 貧乏を知っているかどうかという問題は、世代の問題とも重なっています。民主党内の自民党出身の政治家にしても、大半が地方の選挙区で選ばれた人たちです。地元の色々な付き合いで、中小企業の社長さんや農家の人たちが今何で苦しんでいるのか、よく分かっている。むしろ民主党の若い議員に、それが分かっていない人が多い。

http://www.bund.org/interview/20060215-1.htmに戻って、

去年の総選挙で、自民党は北海道でだけぼろ負けしました。当然だと思いますね。小泉改革によって北海道は完全に切り捨てられてしまったわけですから。「小さな政府」とか「官から民へ」なんていう絵空事のインチキに北海道はもう気が付いていたわけです。だから鈴木宗男さんが、あんなに票をとるわけです。私は、「北海道こそ5年後の日本だ」と最近いつも言っているのです。このままだと社会的弱者や「負け組」はみな、北海道のように切り捨てられていってしまいますよ。

 最近私は、若干考えを変えたことがあります。「ムダだムダだ」というけれど、世の中を健全に統治していくコストをトータルで考えたら、地方へ多少公共事業を渡すぐらい安いものなのではないかと考えを変えました。なぜなら、いま北海道の札幌以外の地域は、どこもかしこもまさに「どん底」です。こうした状態がこのまま3年5年と続いたら札幌以外の地域には人が住めなくなるでしょう。みんな大都市に集まってきて、タクシーの運転手とかコンビニの店員とかやるしかなくなってしまう。

 そうなると世の中は確実に荒廃しますよ。やっぱりいろんな地域で人々が暮らしていて、ムダかどうかは別として、そこで何か仕事に従事してお金を稼ぎ、家族を養っていければ、世の中平和なのです。それが今までの仕事を捨てざるをえなくなって、地方の人々が都会に集まってくる。そうなればやはり社会不安は高まらざるをえないわけです。

 そうなった時、「勝ち組」の人は、米国のゲーティッド・コミュニティみたいに、柵を張り巡らしてガードマンを配置して自分たちを守ればいいと思うのかもしれない。だけど、社会全体はそういうわけにはいきません。多くの人々は、高まった社会不安の中で生活していくしかないわけです。

ところで、社会のせせこましさやつまらなさに関しては、「六本木ヒルズに住む「ヒルズ族」を見てもうらやましいとは感じないが、「近所の公務員宿舎には腹が立つ」という庶民感情」というのは重要なファクターのひとつではありますね。そうすると、暴力は内向したり、身近な兎みたいな対象に向けられたりはするが、国家を揺るがす謀反などは起こらず、それなりに社会秩序というのは安泰になるわけだ。但し、何に対してであれ、羨望(envy)というのは劣情であると思うので、それを政治的資源に動員するという論(山口氏がそうだと言っているわけではない)には与したくない。道徳的・美的な嫌悪というのもあるのだけれど、それは結局反動的にしか機能し得ないと思うからだ。やはりどのような社会運動においても〈ニーチェ的〉なコアは必要なり。
山口さん、鈴木宗男と『世界』で対談しているんだ(とメモ)。