『ミリオンダラー・ベイビー』/言語

 クリント・イーストウッド監督の『ミリオンダラー・ベイビー』についてはかなり以前*1に言及したことがあったけれども、最近medusahimeさんという方がこの映画について、(多分)ラカン派の精神分析に依拠して考察されているのを発見した*2。medusahimeさんによれば、この映画のテーマは「言葉のパラドックス」である。曰く、


 詩も通常の言葉とは対局にある。通常の言葉が意味と直結し、言葉の世界の中にいるのに対して、詩は音やリズム、反復などにより意味を攪乱し、言葉の世界を脅かす。つまり、通常言語は、頭脳的プログラミングが可能な、家父長的イメージがあるのに対して、詩的言語は、身体的で計算不可能な、母なるものというイメージがあるのだ。


 いずれにしても言葉は“欠如”を意味する。どんな言葉も一言ですべての意味を表すことはできないのは、父なるものの根源的な暴力性が、母なるものとの同一化を禁止するからである。

 人が言葉を獲得するのは、母なるものとの永遠の同一化を諦めることへの見返りだ。母なるものを排除する暴君的な父なるものとの同一化を果たすことで、言葉の世界に参入し、母を乗り越えるのである。フランキーが娘ケイティに宛てた手紙がすべて返送されるのは、こうした“言葉の欠如”を表す。ケイティは、父を拒否することによって、父の暴力性を訴えているのだ。

 フランキーが「女はお断りだ」とマギーの入門を拒否したり、弱者であるデンジャーを「追っ払え」と言うのは、家父長的暴力性を表している。


 フランキーは、娘に宛てた手紙が絶対に受け取られないことを知りつつも、延々と書き続ける。詩が好きなのも、こうした宿命にある”父と子の関係性=言葉のパラドックス(言葉を獲得するには、暴力・排除・欠如が必須である)”、を知っているからだ。”意味を攪乱し、謎々や魔力を生み出す詩=母なるもの”を愛することで、暴君的だった過去を反省しようとしているのである。

 一方、マギーは、言葉を獲得する以前の母なるものから、精神的に未分化のまま外に放り出された赤ん坊である。母なるものとの同一化を諦めて父なるものに向かおうにも、第一段階(母との蜜月)をクリアーしていないのでは話にならない。ボクシングという異質な世界での成功を望むのは、母の関心を自分に向けたいがためである。

 しかし、彼女の母は子供の成長段階の構造を理解していなかった。父の死も、弟の刑務所行きも、妹の貧困も母の無知が原因だろう。

勿論、細部において解釈を共有できない部分もある。しかし、このところ言語について(拙いながらも)つらつらと考えることも多いので、紹介した次第である。
 作中でフランキー(クリント・イーストウッド)が読んでいるイェーツの詩の意味については、蒙を啓かれた感がある。