随分前のものだけれど、matsuiismさんの「存在の同等性」という文章*1。自分と同じように、アレントの権力/暴力或いは財産/富という区別に共感的な関心を寄せる人がいるのを発見したことは単純に嬉しい。このことは忘れないうちに記しておかなければなるまい。
ところで、matsuiismさんは今村仁司『抗争する人間(ホモ・ポレミクス)』という本を援用している。この本は知らなかった。ただ、matsuiismさんが引用されている限りで、今村さんの言っていることには疑問というか留保をつけたいと思うところもある。先ず、「道具的権力に訴える誘惑に対抗するには、「評議会権力」、すなわち討議する言説共同体を温存する、あるいはあらためて創造するしかない。これはいまも魅力的な構想である」。アレントというかアレントにインスパイアされた参加民主主義を語る場合、「共同体」という言葉の使用は慎重でなければならない。そもそも共同性と公共性は違うわけだし、或る種のリバタリアンは「参加民主主義」とコミュニタリアニズム(aka civic republicanism)をあからさまに同一視している。例えば、森村進『自由はどこまで可能か』第4章「政府と社会と経済」*2。

自由はどこまで可能か=リバタリアニズム入門 (講談社現代新書)
- 作者: 森村進
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2001/02/20
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また、「十九世紀以来、近代国家が採用してきた種々の社会政策(国民の厚生福祉、失業対策、最低賃金保障、健康保険、要するに、国家財政による所得再分配政策)は、古来の贈与原理を復活させたものである」ということだけれど、アレントが『人間の条件』で「社会の勃興」として論じているところを勘案すれば、事柄はもっと微妙なものになる。アレントによれば、ここで確立されるのは「同等」な者同士の関係というよりは、強力な家父長或いは主婦による支配下での家族成員の平等のようなものだということになるからだ。