言語、身に着けること、脱ごうとすること

 内田樹氏の「まず日本語を」*1finalventさんの「日本人が日本語など学ぶ必要はない」*2は、内田氏の名前は出していないものの、両者を比較して読めば、それが内田批判であることはすぐにわかる*3
 私はといえば、この件に限っていえば、内田氏に左担する。
 内田氏曰く、


私が提言するのは、ロジカルで音韻の美しい日本語の名文をとにかく大量に繰り返し音読し、暗誦し、筆写するという訓練を幼児期から行うことである。「これはどういう意味か」とか「作者は何を言いたいのか」とか「この『それ』は何を指すか」とか、そんな瑣末なことはどうでもよい。名文には名文にしかないパワーがある。それに直接触れるだけで読み手の中の言語的な深層構造が揺り動かされ、震え、熱してくる。そして、論理的思考も、美的感動も、対話も、独創的なアイディアも、この震えるような言語感覚ぬきには存立しえないのである。
独創性は母国語運用能力に支えられるというと意外な顔をする人が多い。だが、創造というのは自分が入力した覚えのない情報が出力されてくる経験のことである。それは言語的には自分が何を言っているのかわからないときに自分が語る言葉を聴くというしかたで経験される。自分が何を言っているのかわからないにもかかわらず「次の単語」が唇に浮かび、統辞的に正しいセンテンスが綴られるのは論理的で美しい母国語が骨肉化している場合だけである。母国語を話していながら、「次の単語」が出てこない人間、階層構造をもった複文が作れない人間はどのような知的創造ともついに無縁である他ない。
「ロジカルで音韻の美しい日本語の名文をとにかく大量に繰り返し音読し、暗誦し、筆写するという訓練を幼児期から行うこと」には賛成であるし、「母国語を話していながら、「次の単語」が出てこない人間、階層構造をもった複文が作れない人間はどのような知的創造ともついに無縁である他ない」ということも、その通りだというほかあるまい。ただし、内田氏は〈余計なこと〉をいうことによって、自らの論の信憑性を損なってしまっていると思われる。
 言語は、そもそも有限な記号によって無限なる現実に対処するシステムである。ということは、〈ボキャ貧〉というのは言語使用者にとって、そもそもの宿命である。有限であっても、手持ちのリソースが多ければ多いほどいいというのは当たり前である。また、そのリソースを、いちいち考えることなく使用できるためには、それらは身体化されている必要がある。そのためには、「大量に繰り返し音読し、暗誦し、筆写するという訓練」は必須である。ただ、それだけだ。「名文にしかないパワー」など関係ない。第一、「名文」とは何なのか。ここははっきり〈古典〉というべきだろう。ここでいう〈古典〉とは、永きに亙って読み続けられ・引用され続けてきたテクストという意味。ロックンロールのスタンダードがそうであるように。「大量に繰り返し音読し、暗誦し、筆写する」というならば、そのようなテクストを重点的にやる方が効率的であるということだ。明治時代の日本人が西洋渡りの新生事物に対して、自らの漢籍のヴォキャブラリーを以て対処したことを想い出そう。
 ただ、クリエイティヴに言語を使用すること、クリティカルに言語を省察すること、これらのためには、それで充分というわけにはいかない。身体化されてしまった言語、そこには原初的に言語が言語ならざる世界と遭遇した際の驚きや戸惑いはない。言語は身体に貼り付いているだけでなく、世界にも貼り付いてしまっている。クリエイティヴであるためには、そこから身を引き剥がし、原初的な吃音状態、片言の状態を自覚的に恢復しなければならない。それに関して、最近気になったのは、佐藤亜紀氏の文章*4である。これはそもそも『テクスチュアル・ハラスメント』という本の書評なのだが、その中で、佐藤氏は「「女性言語」とか「男性言語」とか言う以前に、言語そのものが常に他者のものだという感覚が、少なくとも私には、付いて離れない。この言語とかあの言語とかではない――全ての言語は、そもそも他者の言語ではないか」という。さらに、長文を厭わず、引用を続ける;

 非常に私的な感覚の話になるのをお許しいただきたいが、私は、よく人がやるように「母語」と言う気がしない。「母語」という語を使う人は、言葉に「国」が、つまりは国家が、人為的な機関が介入することを嫌ってそうする訳だが、私にはそれは誤魔化しとしか思えないからだ。少なくとも日本語の場合、私たちが習い覚え、教育を受け、こうやって書き始める言語は、国家による管理の色を濃厚に帯びている。崩すだけ崩していくことはできるが、根本から壊すことも、完全に私的な形に転用することもできない。できたとしても端から回収されてしまう――そういう感覚がある。故に、常に「母国語」だ。国家が制定し、管理する極めて人為的な言語であることを明示しておきたいのである。

 ところで、たとえば方言で書いたとしたら自由になることはできるだろうか。これもまた不可能だ。私は方言では育っていない。幼稚園に行ってから仕方なく覚えた共同体の言語だ。おまけにこの方言の音は、日本語の表記体系では完全には再現できないと来ている。つまり、私に本来の言語などないのである。全ての言語が外国語であり、他者の言葉だ。日本語で話している時も、原―言語を日本語に解きほぐしながら話すようなもどかしさが付き纏って離れない。本来の言語に戻れば自由になれる、というような楽観的な希望は、私にはない。

 むしろことは全然逆ではないか。小説は、他者の言葉と他者の声で書くものだ(自分自身でさえ、そこでは他者だ)。当然のことながら、言語もまた、他者のものであるだろう。それをはっきり認識することによってはじめて、書き手は言語的な自由を獲得する。つまり、何かの言語に「根」を求めることを断念し、何の本来性もないただの道具として扱ってはじめて、言語を意識的に操作することが可能になる。言語表現における自由は、使用する言語の外側に立ってはじめて可能になる、と言うことになるだろう。  最良の作家は常に亡命者であり、最良の作品は常に読み人知らずである。私が抵抗を感じるのは、作品を書き手に結び付け、書き手を性別 や人種や国籍に結び付け、そこから解釈や評価を引き出そうとする姿勢だ。テクストの価値を女性が書いたものであるがゆえに貶めようとする人々と、女性が書いたものであるがゆえに高く買おうというラスの姿勢は、全く同じだ。いずれにせよ、女性の書き手にとって、そうした形で作品を読まれることは致命的なのである。

「小説」というジャンルと自然的態度の構成的現象学という哲学的スタンスは(私見によれば)密接な関係を持っており、この問題系はさらに詰めなければいけないのだが、取り敢えず佐藤氏の「何かの言語に「根」を求めることを断念し、何の本来性もないただの道具として扱ってはじめて、言語を意識的に操作することが可能になる。言語表現における自由は、使用する言語の外側に立ってはじめて可能になる、と言うことになるだろう」という部分にコメントすれば、これにはもう1つツイストがあるのではないかということである。クリエイティヴィティは、「使用する言語の外側に立」ち、「言語的な自由を獲得する」ことの不可能性の諦念においてこそ生起するのではないだろうか。たしかメルロー=ポンティが『知覚の現象学』にて、現象学的還元の最大の成果は現象学的還元の不可能性であるといっていたように。それこそが、「言語もまた、他者のものである」ことを「はっきり認識すること」ではないか。勿論、身体化された共同体の言語に安住しろというのではない。予め〈挫折〉を運命づけられていたとしても〈外側〉を志向することが重要なのである。
 さて、finalventさんは、

論理的で音の響きのよい日本語の名文を繰り返し音読・暗誦・筆写せいとか、無意味だと思う。言葉というのは、まず誰かの言葉だからだ。言葉を愛するのではない。その誰かを愛することだ。愛というのは単純に言えば抱きしめることだから身体というものが要るのだが、不思議なことに愛というのはそこを少し超える。少し超えたところに肉声があり、その人の魂の声というものがある。
 私は親鸞の身体も肉声も知らないが、「誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし」というつぶやきに親鸞という人を感じる。親鸞を愛する。親鸞という人の生き様の経験に自分の思いを重ねる……愛のなかでその言葉がある。
 言葉があるのではなく言葉の先に人がある。肉声がある。「其の謦咳を承くるが如く、其の肺腑を視るが如く、真に、手の舞ひ、足の踏むところを知らず」とダンス・ダンス・ダンス
という。しかし、これはあまりに浪漫主義的ではないか。事実、私たちは多くの場合、「誰かの言葉」に遭遇するのではなくて、端的に〈言葉〉に遭遇するのだ。「誰か」に辿り着けたとしても、その「誰か」はその言葉の起源ではありえない。その「誰か」も、別の「誰か」の、或いは誰とも知れない言葉を引き取り、発話したり、書き付けたりしたのだから。
 Kate Bushの”You’re the One”の中で、honeyとsugarが反復される。Kateの肉声としてこれを聴き取れば、これがたんなる「蜂蜜」と「砂糖」ではないことは明瞭である。しかし、同時にこれらが誰でもが使用する英単語であるということも明らかである。誰もが、昨日も今日も明日も、Kateの記憶を刻みつけながら(或いは忘却しつつ)、honeyやsugarを使用してゆく。