「一般意志」(メモ)

http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20120306/1331001376
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20120308/p1


ジャン・ジャック・ルソーの「一般意志(volonté générale)」の意味が問題になっているようだ。そこで、『社会契約論』第2編第3章「一般意志は誤ることがありうるか(Si la volonté générale peut errer)」の井上幸治訳(中公文庫)と仏語原文*1を見てみた。曰く、


全体意志と一般意志には、しばしば多くの差異がある、一般意志は共同利益にしか注意しないが、全体意志は私的利益を注意するもので、特殊意志の総和にすぎない。しかし、この特殊意志から、相殺される過剰の面と不足の面を除去すれば、一般意志がその差の合計として残るのである。(p.41)
ルソーの謂う「一般意志」って??なところがかなりあったあったのだが、こここでルソーはそう複雑なことは言っていないような気がする。要するに、「特殊意志」の集積から「特殊」なるものを差し引いて、その差を再度集計すると、凸凹が均されて均一化して、「一般意志」なるものが出現するよということだろう。問題となっている”somme des différences”の”différences”は「差異」ではなく「差」と訳すべきなのだろう。つまり引き算の結果。とはいっても、このルソー自身の定義を念頭に置いて『社会契約論』全篇を読んで納得できるかどうかは問題が別。特にルソーは「一般意志」を生成されるための引き算や足し算が如何にして行われるのかを示していないような気がするのだ。
社会契約論 (中公文庫 D 9-2)

社会契約論 (中公文庫 D 9-2)

「一般意志」とは何かということを考えるヒントとして、ルソーの論から2つほど論点をマークしておきたい。
ルソーは上に引用した箇所の「しかし、この特殊意志から、相殺される過剰の面と不足の面を除去すれば(mais ôtez de ces mêmes volontés les plus et les moins qui s'entre-détruisent)」という箇所に註を打っている。その註に曰く、

ダルジャンソン侯は次のように述べている。「各人の利益はおのおの違った原則の上に立っている。二つの特殊利益の一致は、第三者の利益に対する反対によって成り立つ」ここに彼は、あらゆる人の利益の一致は、各人の利益に対する反対によって成り立つ、と付け加えることもできよう。したがって、もし利益の相違ということがなかったならば、なんの障害も受けないような共同利益を考えることはできないだろう。そうでなればすべてはおのずからはこび、政治も一つの技術ではなくなるだろう。(p.189)
ここでルソーはダルジャンソン侯を引用しつつ、けっこうやばいことを述べているのではないだろうか。「一般意志」生成の前提としての〈敵〉の存在。「一般意志」或いは国家の生成が対内的には(今村仁司*2のいう)第三項排除(cf. 『排除の構造』)、対外的には或る種の排外主義を孕んでしまう。或いは〈異端〉の摘発。
排除の構造―力の一般経済序説 (ちくま学芸文庫)

排除の構造―力の一般経済序説 (ちくま学芸文庫)

『社会契約論』第3編第1章「政府一般について」では、

さて、特殊意志と一般意志との関係、言い換えれば習俗と法との関係が希薄になればなるほど、抑圧力は増大しなければならない。したがって、政府がよき政府であるためには、人民の数が多くなればなるほど、相対的に強力でなくてはならなくなる。(p.78)
と述べられている。「主権者のすべての行為は、法以外のものにはなりえない」とも述べられているが(p.75)、『社会契約論』では「一般意志」は「法」とほぼ同義で使われているというか、少なくとも「法」として表現されないかぎり「一般意志」が現実に存立することはできないとは言えるだろう。また第2編4章や6章で述べられているように、「一般意志」(の表現)たる「法」は「一般的対象」にしか関わることができない*3。だから「一般意志」=「民意」というのは(『社会契約論』に従う限り)少し外していると言わざるをえないのではないか。そもそも「民意」というのは、それが集計されたものである以上、またそれが「法」として表現されない限りは、〈多数の意志〉かせいぜい〈全体意志=全員の意志(volonte des tous)〉でしかないのだが、問題なのは、そうであるにも拘わらず恰も(特殊を超越した)「一般意志」であるかのように(私に対しては)現象してしまうことだろう。というわけで、「一般意志」というのは(マルクス主義で謂うところの)物象化に関連した事柄だいうことになる。というわけで、廣松渉先生はルソーの「一般意志」についてどう論じているのかが気になって、『唯物史観と国家論』を捲ってみた。ルソーに関しては、第4章「国家理論における機関説と統体説」の第3節「近代的国家観の史的展相」で言及されている。ただ「一般意志」については、その後に「ヘーゲル国家論との関係において」詳論されることが〈予告〉されているが(p.210)、その〈予告〉は遂に実現されていないのだった。
唯物史観と国家論 (講談社学術文庫)

唯物史観と国家論 (講談社学術文庫)

ただ序でということで、アダム・スミス国家論と対比した部分を少しメモしておく。

(前略)彼[スミス」の用語法では「主権者」と「国家」とがほぼ等置される。この際の「主権者」がルソー的な「集合的存在」ではなく、統治権力governmentの人格的表現であること、(この等式から、「国家」はcivilgovernmentに統括された社会という含みをもちつつも、さしあたっては就中「政府」government スタトゥスを指すことになる)、これは確かである。しかるに、この「主権」は、スミスにあっては、神与のものでないことは勿論、契約によって成立するものでもなく、「富者」の意志を具現する。この限りで、ホッブスやルソーのそれとは地平を異にするようにおメル。ホッブスやルソーにあっては、morale! たるこの「国家」=「人工的人格」=「法人」に、各人が権能を”出資”する! ”出資金”(権能)”の所有権を譲渡するか(ホッブス)、所有権を保有するか(ルソー)、この点は違いがあるにせよ、この商事契約者たち全員の合力、それがこの”法人組織”の”主権”をなす。これに対して、スミスの国家=政府は、社会成員の一部の者が勝手に設立したものにすぎない。(p.232)

問題の眼目は、あくまで、社会の成員が、その特殊意志において国家権力に反撥することがあっても”一般意志”においては、国家権力を”共同利害”の体現者として、認証し、支持するということ、この限りにおいてのみ国家が存立するという”事実”のイデオローギッシュな権利づけにある。この眼目に即する限り、ほっぶす・ルソー的な理説とスミス・ファーガソン的な理説との基底的な了解の構えには何らの相違も認めがたい。
こうして、国家権力の存立根拠とその構造について(略)共通の了解のうえに立つホッブス・ルソー的な国家論とスミス・ファーガソン的な国家論とにおいては、「国家」という概念のdenotatumとしてキヴィタスを立てるかスタトゥスを立てるかという点では、両極的な対立関係にあるけれども、両者は同一地平の埒内にある。(略)根本的な思想性と国家の内実に関する了解に即して捉え返してみれば、キヴィタス論とスタトゥス論との対立なるものは、”一般意志””共同利害”の具現体を「人工的人格」としてのキヴィタスという擬制に置くか、それともスタトゥスというestablishmentに置くか、この点での相違たるにすぎない。(p.234)

ルソーには、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050805 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070522/1179863073 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070713/1184301731 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080918/1221675301 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081205/1228406152 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090518/1242584743 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090618/1245290595 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090621/1245586039 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091127/1259318413 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091228/1262021085 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100325/1269541570 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100415/1271309817 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100916/1284577129 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110106/1294242349 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110129/1296271979 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110210/1297348107 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110617/1308337377 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20120109/1326043137で、間接的・直接的に言及している。

「一般意志」についてのWikipediaエントリー;


http://fr.wikipedia.org/wiki/Volonté_générale
http://en.wikipedia.org/wiki/General_will

*1:問題の箇所の仏語原文はhttp://www.inlibroveritas.net/lire/oeuvre3478-chapitre11163.htmlで読める。

*2:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070510/1178806929

*3:「法」が一般性に関わることはデリダの『法の力』を参照されたい。但しデリダのいう一般的なるものとしての「法」はルソーの「一般意志」の如く無謬なものではなく、常に(「正義」によって脱構築される可能性を孕んでいるわけではあるが。See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060206/1139243584 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071024/1193204480 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071121/1195614055 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080502/1209661435 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080904/1220503480 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081222/1229915830 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090322/1237733396 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090804/1249374491

法の力 (叢書・ウニベルシタス)

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