同時性の想像

小泉義之さん、blogを中止してしまうのか。その最後のエントリーから、


時間との関連で言えば、おそらく現在主義者・現前主義者とでも分類されるであろうが、現在・今の〈同時性〉が気にかかった。今ここで、パソコンを操作している。と同時に、隣の部屋では家人が何かをしている。と同時に、向こうの道路を車が通り過ぎていく。ここには、情報の速度、感覚の範囲、想像の広がる「速度」が入り込んでいる。と「同時」に、距離が入り込んでいる。そして、と同時に、遠くでは、誰かが生まれ誰かが死んでいく。その知らせは遅れて届くにしても(「後で」というより「遅れて」である。このひと事だけで、〈逆向き因果〉論は物足りないことが明らかである)、きっと何かが遠くで同時に起こっている。しかも、こんな同時性が、ギクシャクと音を立てるでもなく、変わってゆく。あるいは、移ってゆく。それとともに(?)、この私も移ってゆく。ところが、「持続」も「生ける現在」も「厚みのある現在」も、この不可思議さを言い表わしてはいない(と思ってきた)。
http://d.hatena.ne.jp/desdel/20080402
という箇所をカットしておく。
最後の方に述べられている「移ってゆく」ということ、これはアルフレート・シュッツがいうgetting older togetherの諒解に結び付けて考えられないか。それはともかくとして、私は〈同時性〉の想像に拘ってきたというか拘っている。今同時に見知らぬ誰かが私と関わりのあることを行っているということを想像すること(できること)こそが社会なるものが主観的リアリティとして存立する基礎なのではないかと考えている*1。最近も、グローバル化を説明するにあたって、この論点を使ったのだが、読まれた方のご評価は如何だろうか。
ソシオロジカル・スタディーズ―現代日本社会を分析する (SEKAISHISO SEMINAR)

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また、私がこの問題を考える1つの契機となったのは、保坂和志の『残響』を読んだことであるということも申し添えておく。
残響 (中公文庫)

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